歌舞伎劇評 令和元年七月 歌舞伎座昼の部、夜の部
今年も七月の歌舞伎座は、海老蔵の奮闘講演。毎年のように新機軸を打ち出し、しかも満員御礼となる。歌舞伎が興行である以上、まことに慶賀の至りである。
夜の部から書く。
海老蔵が『義経千本桜』を題材に、主要な役のほとんどすべてを早替りで見せる『通し狂言 星合十三團(ほしあわせじゅうだんだん) 成田千本桜』(織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎 補綴・演出)である。発端から、大詰まで、海老蔵はほぼ出ずっぱり。なにしろ、単独でも大役といわれる知盛、権太、忠信を一晩で出してしまうのだから気宇壮大きわまりない。歌舞伎のトライアスロンというべき壮挙である。
「伏見稲荷」「渡海屋」「大物浦」。「椎の木」「小金吾討死」「鮨屋」。「法眼館」「奥庭」。と場を並べただけでも気が遠くなる。かつて、猿翁(先代猿之助)が復活した『伊達の十役』のときも仰天したが、ここまで大役を網羅するのは、本人はもちろんだが、受けの芝居をする市蔵、そして早替りを支える名題下も、裏ではさぞ忙しく、大変だろうと想像する。観る方にも体力が必要で、老いた私は、「大物浦」が終わったあたりでお腹がいっぱいになった。
ここまでくると、権太が本役だとか、知盛に腹が薄いとか、忠信の狐詞が幼いとか弱点をあげつらっても意味はない。ドラマの実質よりは、だれもやったことがない歌舞伎をやる。強い意志に胸を打たれた。
また、二十五日公演、休演日を取らない歌舞伎座の常識も、海老蔵からすれば常識ではない。昼の部を一日、夜の部を三日休む。勘三郎、三津五郎を喪った今となっては、こうした休演日を必要性を訴える海老蔵の主張は、しごくまっとうに思える。また、ここまでの奮闘公演では、周囲も休演日やむなしと思うのも当然だろうと考える。
昼の部も、海老蔵は二本の出し物を出す。右團次の『高時』は、舞台に大きさがあり、やはり芯を勤める役者なのだと改めて思う。獅童の『西郷と豚姫』が幕を閉じたら、海老蔵の独壇場となる。
『素襖落』は、次郎冠者に友右衛門、姫御寮に児太郎、太刀持に市蔵、三郎吾に権十郎、大名某に獅童を配する。狂言から来た出し物だが、海老蔵に腹からの笑いが乏しく、神妙な一幕となってしまっている。
続いては、海老蔵と堀越勸玄の『外郎売り』。團十郎、海老蔵襲名を控えているからか、堂々たる成田屋の芝居である。堀越勸玄は、将来の大器を今から予感させる舞台度胸で、むずかしい言立てでは、余裕さえ感じさせる。観客席は万雷の拍手。こうして御曹司として生まれた役者は、演じることのおもしろさを身につけて行くのだろう。二十八日まで。
付記 この劇評を書き終えてアップしたのは14日。翌日の15日には海老蔵の休演が発表された。病名は急性咽頭炎である。役者にとって声は生命線である。大事を取り、しっかり休養してほしいと思う。