一ヶ月前に、平山周吉の『江藤淳は甦える』(新潮社)を送っていただき、連休の間、読みふけっていた。
江藤淳について書かれた評伝について、書評めいた文章を書くほどの知識は持ち合わせていない。
なので、踏み込んだことは書けない。書けないのだが、亡くなった人を弔う本については、少し思うところがあった。
私は蜷川さんが亡くなって、息もつかずに『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』を書いた。
なぜだろうと、今になって思い返す。
少し、時間をかけて、十分に取材も幅広く行い、足音を追い、ゆかりの土地も踏んで書いてもよかったと、今更ながら思う。
ただ、当時思っていたのは、今、その瞬間を駆け抜けるという蜷川さんの生き方にふさわしく、
なにもかもが私の内部で風化したりしないうちに書き留めておこうと思った。
それについて悔いはない。ないのだけれども、二十年前、文學界の編集長として最後の原稿をもらった平山の、江藤に対するどうしても許せない思いが伝わってくる。なぜ、あなたは死んだのか。しかも自決したのか。
その凄まじい執念に貫かれた調査と文章の密度は、類書の群を抜いている。
また、誤解を恐れずに云えば、弔うというよりは、死んだ魂を揺り起こすほどの力に満ち満ちている。
私はいつか、蜷川について、こんな本を書けるのだろうか。
いや、演出家について、そんな本は書けるものなのだろうか。
昨日、アンヌ=テレサ・ケースマイケル振付の『至上の愛』を東京芸術劇場のプレイハウスで観た。
いわずとしれたジャズ、テナーサックスの巨人コルトレーンの音楽で踊っている。
渡されたパンフレットには、ケースマイケルの言葉が記されていた。
「おそらく、振付家ないしダンサーである私たちは、作曲家のように確たる作品の痕跡を後世に残すことがありません。しかしながら、音楽史上における重要な作品に対して振付やダンスで応答することは、芸術的な挑戦であると考えています。このようなかたちで、私たちは何かを具現化するコンテンポラリーダンスの力に身を捧げることができるのではないでしょうか。私たちは今、新世代の才能あふれる若きダンサーたちとこうした挑戦ができることを嬉しく思っています」この作品で、アンヌはサルヴァ・サンテスと共同振付をしている。
応答と痕跡。挑戦と敗北。そして若い世代へ。
平山周吉の『江藤淳は甦える』には、複雑な声が聞こえている。その多重的な和声の混乱が、読む人を惑わせ、そして感動へと導いている。