現代演劇劇評 平成二十九年八月 新国立劇場小劇場
KERA流の『ワーニャ伯父さん』(アントン・チェーホフ作、上演台本・演出ケラリーノ・サンドロヴィッチ)を観た。
原作を尊重しつつ、上演台本を作成する。稽古場で受けの芝居やタイミングのずれで、人間本来の滑稽を浮かびあがせていく。この手法はこれまでの『かもめ』『三人姉妹』から一貫している。本来AからBへと話しかけられているはずの台詞は、実はCへと投げかけられている。そんな演出家としての読みは、おそらくは上演台本を作る過程で明快になっていくのだろう。上演台本にギャグを入れることで笑いをつくりだすのではない。聞こえないふりをしたり、自分の都合のいいように相手の言葉や表情を解釈したりする人間のダメさ加減が、KERA演出の根幹にあるとよくわかった。
また、ドラマにおいて笑いを作りだすのは、権威をかさにきた人間を引きずり下ろし、また、忍従に耐える人間に崇高さを見いだす方程式によるものだろう。このような解釈は従来のチェーホフ上演になかったわけではないが、この舞台ではなにか「歪み」のようなものが演出に混在する。けれど、舞台であるからは演出の意図だけですべては終わらない。現実の上演ではキャスティングの問題が介入する。役者がこれまで背負ってきたイメージは、現代演劇においても、否応もなく役柄に影響を与える。
たとえば、退職した教授のセレブリャーホフの山崎一を過度に滑稽にしたために、なぜ段田安則のワーニャと黒木華のソーニャが長年仕送りをつづけてきたのかが不分明になる。極論すれば、ふたりはセレブリャーホフの正体を見破らずにここまできてしまった愚かさが終幕にいたって大きく見えてしまう。
あえていえば、宮沢りえのエレーナが突出しているために、この特権的な美貌と魅力を持った存在が、いかに例外なく周囲の人間を変え、そして静かな領地が恋愛の戦場へと変わっていったか。関係性の変化の物語として成立している。
山崎のセレブリャーホフは、終幕、この館を去るにあたって、宮沢の妻エレーナと横田栄司のアーストロフの抱擁を目撃している。この衝撃を受けて、別れの挨拶がある。ケラリーノ・サンドロヴィッチの上演台本は手元にないので、標準的な神西清訳を引用する。
セレブリャーコフ(ソーニャに接吻して)さようなら……皆さん、ご機嫌よう! (アーストロフに手を差し伸べて)愉しくご交際を頂いてありがとう。……わたしはもとよりあなたの物の考えようや、あなたの熱心や感激性を、大いに尊重します。だが一つだけ、この年に免じて、お別れのしるしに、一言忠告をゆるして頂きたい。皆さん、仕事をしなければいけませんぞ! 仕事をしなければ! (一同に頭をさげる)ではご機嫌よう!(退場)
とある。
さきにアーストロフに手を差し伸べられたのを拒んでおきながら、ここでは握手をする。しかし、私の聞いた限りでは、「熱心」を「熱情」に言いかえて、台詞を立てている。つまりは、全体に対する別れの挨拶ではなく、アーストロフに対する嫌味ともなっている。
これを「偉大なチェーホフ」を卑小にしたというべきではない。むしろ、ワーニャやソーニャを含めて、人々を「チェーホフの懸命に生きる人物」から解放した。ありきたりの人間に突然起こった心の嵐と捉えたいと思う。
段田のワーニャは、老年の入口にいる人間の絶望が見える。宮沢のエレーナは、夫と不釣り合いな美貌で舞台を圧する。『桜の園』のラネーフスカヤが射程に入っているのだろう。ウォイニーツカヤ夫人は、かたくなで難しい役だが立石涼子が、かつての魅力をしのばせる美しい声で演じている。
アーストロフは難しい役だ。クロロフォルムで患者を殺してしまった苦悩、エレーナに対するどうにもならないエロティックな思い、ソーニャに対する鈍感さは、チェーホフ独特の人格的に分裂したインテリゲンチャとして描かれている。かつてはよかった。けれど、今はくたびれている。
横田はこの一貫しない医師の役をくたびれきった元美青年ではなく、まだエレーナを「番小屋」へ誘惑できると根拠なく確信している男として描き出した。
乳母マリーナの水野あやは、館全体を体現し、サモワールをひたすら守る存在として劇全体の基調を作る。ギター演奏は伏見蛍。
宮沢りえ、黒木華に生彩があり、ふたりの代表作となるべき舞台となった。
九月二十六日まで。新国立劇場小劇場。