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2017年4月4日火曜日

【劇評69】春宵一刻値千金。吉右衛門、菊之助の「吃又」

歌舞伎劇評 平成二十九年四月 歌舞伎座

春宵一刻値千金。
書き下ろしの仕事も一段落して、あとは刊行を待つばかり。今月からこのブログによる劇評もそろりそろりと再開します。

四月大歌舞伎
の昼の部は、鴈治郎、扇雀を中心に右團次、門之助、松也らと若手がこの春を言祝ぐ『醍醐の花見』。こうした俳優の個性をゆったりと楽しむ踊りには、理屈はない。ただ、春宵ならぬ春の昼をかけがえのないものとして味わう気持、さらにいえば、この一刻はもう二度と戻っては来ない無常観が現れればなおよい。思えば季節は、俳優のそして歌舞伎の人生の比喩ともなりえるのだった。

次いで『伊勢音頭恋寝刃』の半通し。おなじみの油屋に至るまでの三場。追駆け、地蔵前、二見ヶ浦は、特に前半、近年幹部となった橘三郎、橘太郎のチャリを含めた身体のこなしを楽しむ場となった。
染五郎の貢、猿之助の万野が初役。秀太郎が万次郎に回るなど清新な配役だが、幕が開いて二日目とあって、まだお互いの息を見定めている段階だったのだろう。染五郎は生真面目な御師が狂気へと至る過程を唐突な飛躍ではなく、辛抱の末ととらえて、順を追って埋めていこうとしている。
猿之助の万野には、ふっと六代目歌右衛門の影がよぎる。この役は単に狂言回しではなく、この廓を仕切る中心にある、いわば精神のようなものだと認識している。その万野の覚悟をにじませようとしているのが特長だ。代役で替わった京妙の千野とともに、表面はにこやかで美しい仲居たちの底意地の悪さがよく出ていた。料理人喜助は、松也。色気があるこの人を喜助とは驚いたが、それでも役にしてしまうところがこの人の進境。梅枝のお紺は魅力にふくらみがあって、いずれは『籠釣瓶花街酔醒』の八ッ橋へと進むだけの才質がそなわっていると確認できた。米吉のお岸に善良さがあり、このあたりは俳優の持ち味で大切にしたい。萬次郎のお鹿は腕のある人だから文句はない。顔の化粧は控えめでも十分説得力があるだけの力量がそなわっている。

昼の部の切りは、時代物の大物『熊谷陣屋』。幸四郎の熊谷は「出」から赤っ面で、従来の團十郎型に、芝翫型を取り入れる意欲にあふれている。刻々と心理の動きを描写するのではなく、ただ、自分の犯した罪科に身を苛んでいく男の鬱屈した精神がありのままに伝わってきた。本来、近代的な芸質の役者だが、今回時代物を新しいやり方で乗り越え、自分のものとしたい覚悟が伝わっていた。ただ、次回、手がけるのであれば、芝翫型をより積極に取り入れ、花道をひとりで引っ込む演出を疑うところにまで踏み込んでもらいたいと思った。相模は猿之助。夜の『奴道成寺』とともに大活躍だが、この熊谷の妻も沈潜して、ひたすら辛抱する役だけに年季がいる。
あるいは、猿之助の将来はこうした武家の女房の大役になるのではと思う。それだけに、順を追って手がけ、ひとつひとつの積み上げが大切になる。あせらず、迷わず、歌舞伎座を背負う大きな女方として大成してもらいたい。

夜の部の『傾城反魂香』は、吉右衛門の手に入った当り役だが、菊之助のおとくを得てこれまでとは一変した。本来、吉右衛門は実悪、しかも国崩しまでできる英雄役者だと思う。又平は一介の大津絵師であり、これまでは大きな身体を持てあまして、吃音に苦しむ小心な男を演じていた。今回は違う。英雄役者が又平を演じるのではない。ただひたすら絵師として、人間として大成したい心持ちの又平が、ごく自然に舞台にいるのだ。だからこそ、心持ちが若くなる。これから出世していきたい、土佐の名を許されれば本当にありがたい。ひたすらな願いと率直な野心が宿る又平であった。
人生には岐路がある。この時を逃せば、もう、未来はないのかもしれぬ。立身出世のとばくちに立った男の切実な真情が伝わってきた。すでにこの役を見事に演じてきた名優が、新たな気持ちで役の性根をとらえ直す。この青年のような若さは、いったいどこから生まれたものか。俳優とはいつなんどき、どんなきっかけをも生かして変化していく。そんな力を持つのだと実感した。

菊之助のおとくは初役。女方としてきっちりと裏の仕事ができること。生来、恵まれた声を生かしていること。いずれもいいが、おとく役の少しくどい灰汁のような性格は、この俳優にはないものだろう。そのかわりに又平の絵師としての才能を微塵も疑わない率直さ、まっすぐさがあってふたりの関係が清涼なものとなった。しゃべらない、しゃべりすぎのお互いの欠点を補い合って夫婦関係が成り立っているのでない。まず又平の才能への信頼、そしておとくの真摯なありかたに又平はたよっている。この情愛がよいかたちで出た。

さて、お半、長兵衛の『帯屋』。ただひたすらうつむいて耐えている辛抱立役の長兵衛を藤十郎が勤める。染五郎の儀兵衛、扇雀のお絹、長吉、お半二役の壱太郎、隠居繁斎の寿治郎、義父おとせの吉弥と脇が見事に揃って、上方狂言らしい言葉の綾と綾がからみあう執拗な劇として成立している。
とりわけ嫌味な義弟を演じる染五郎、屈辱のなかでも家を守り通そうとする女房の扇雀が飛び抜けていい。
お半が書き置きを戸口に残して花道を去る。下駄にのったその手紙を見つけた長兵衛はあかりのある家内に戻るがその階段で藤十郎が転ぶアクシデントがあった。その場では無事なんともなかったが、藤十郎の年齢を考えるとこの件りをやや簡略化する手立てもあるのではないか。

最後は猿之助の『奴道成寺』。まったく過不足のない出来で、才質を見せつける。娘道成寺以上に、三ッ面を使うなど趣向の芝居なので、全体のおおらかな雰囲気を忘れないのが肝要だ。細部がよくできているからこそ、全体が取り落とされる危険がときにある。幕切れ、金の鱗をまとって大袈裟にならずにさらっと終えたのは粋であった。(三日所見。二十六日まで)