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2016年9月6日火曜日

【劇評63】吉右衛門、自在な境地に遊ぶ『一條大蔵譚』

歌舞伎劇評 平成二十八年九月 歌舞伎座昼の部

自在な境地に遊ぶ。吉右衛門の『一條大蔵譚』は平成二十六年四月の歌舞伎座以来、二年あまりしか経過していないのにもかかわらず、ますます作為は消えて、世を厭う気分があふれでる舞台となった。
平清盛全盛の時代。「ただ楽しみは狂言、舞」と人生を作り阿呆でいくと決めた公家の話だが、まずはみどころは作り阿呆と正気の切り分けとなるのだろう。ところが、今回の舞台は、観客の笑いをとりにいかない。おおよその人生は一條長成ならずとも、演技によってなりたっている。むしろ、本音を押し殺して生きることこそが毎日だとだれもが思い定めている。この一條は鬼次郎(菊之助)とお京(梅枝)がかつては清盛のもちものであった常盤御前(魁春)の本心を改めに来たために、長年隠してきた平家への憎しみを一瞬爆発させて、元に戻る。そんな世の無常ばかりが舞台を支配していた。ニヒリズムとも違う。政治嫌悪とも違う。自分の器量をわきまえて、目に見える世を故意に霞にかえてしまった男の悲哀だけが胸に沁みる。そんな大蔵卿であった。
まず、菊之助と梅枝の出がいい。志のある若い二人、けれど仲むつまじいところを隠しきれない。茶屋の主人(橘三郎)の余計な一言もむべなるかな。大蔵卿のもとめがあり、鳴瀬(京妙)のとりなしがあり、お京が舞を踊る。端正に乱れなく舞うが、その規矩正しいありようを茶化すように、大蔵卿も舞うとなくツレていく。その風情を愉しんだ。
奥殿の塀外で鬼次郎とお京が常盤御前の様子を探った結果を話すが、ここは忠義がすべてではなく、お互いのいたわり、怖れが漂うようでありたい。
さらに奥座敷にいる常盤御前のありようが立派である。義朝とのかかわりを忘れて二度も嫁いだ常盤を鬼次郎が責める。その正しさを、あまりにも正しいありようを柳に風と受け流す。その高ぶるわけではない自然な品位が備わってきた。いずれは「吉野川」の定高を魁春で見てみたい。
忠義に燃える鬼次郎のまっすぐなありよう。真相がわかってからの恐縮。菊之助の仁と柄が生きる。また、大蔵卿が自らは果たせない平家追討を鬼次郎に託すくだり。すべてを言葉にはせず、目と目で対話するくだりが、吉右衛門菊之助の息があう。
以降の吉右衛門の素晴らしさについては冒頭に書いた。「命長成、気も長成」ののどかな調子、「ただ楽しみは」の諦念、「めでたいのう」のかげにひそむ悲哀。風流人の心に刻々とうつる心象風景が舞台上にひろがる。まさしく名人の境地であろう。
昼の部は染五郎が荒事を巧みにみせる『碁盤忠信』。又五郎、錦之助の『太刀盗人』が出た。今月は『一條大蔵譚』と『妹背山婦女庭訓』が見逃せないのは、いうまでもない。