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2016年8月21日日曜日

【劇評60】ブラックで、ナンセンスで、お下品なコメディ『ヒトラー、最後の 20000年』

  現代演劇劇評 平成二十八年八月 本多劇場 

ブラックで、ナンセンスで、お下品なコメディを見た。
ケラリーノ・サンドロヴィチ作・演出の『ヒトラー、最後の20000年〜ほとんど、何もない〜』は、日本人が好むコメディの範疇から大きくはずれて、独自の世界を追求している。それは、ヒトラーやアンネ・フランクも善悪で判断したりはしない。ヒトラーもユダヤ人も同様に笑いの対象とする。また、劇に教訓や暗喩、絶対に安全な大団円を求める姿勢とは無縁である。こうした悪夢のような世界を実現するには何が必要か。普通に考えるのは圧倒的な身体性で観客を感嘆させることだろう。ケラリーノ・サンドロヴィチが選んだのは、こうした観客を感嘆させる方法ではない。感嘆ではなく、顰蹙を買うことを怖れない方法を採った。
そのために、古田新太、入江雅人はじめすでに中年から老境に入りつつある老いた身体をあえてさらす。これほど美しくはない身体を観客に笑ってもらうことによって、悪夢のようなコメディを成立させる。また、劇には、成海璃子や賀来賢人のように若くて美しい俳優も登場するが、その美しさをあえて否定するようなコスチュームを着せたり、メイクを施したりする。善悪ばかりではなく、老いと若さ、美醜さえもが転覆されようとしている。笑いを追求するとは、こんな怪物と格闘することに他ならない。
その意味でこの『ヒトラー、最後の20000年』は、笑えるためのコメディの域を超えてしまっている。これはむしろ観客はどこまで、ブラックで、ナンセンスで、お下品な舞台に耐えられるか、そんな実験的な野心さえ感じられる舞台になった。
エンターティンメントが全盛の東京の演劇界にあって、これほど前衛的で実験的な舞台はあろうかといったら、うがちすぎる意見だろうか。
筋らしい筋をつくらず、観客がうっとりする台詞を書かず、舞台を美的に作り込むことを拒否する。それでも作品として成立するのは、台詞の間や立ち位置など演出の部分で、相当巧緻な操作がなされているからだ。視覚的にうっとりさせるようなスペクタクルが演劇ではない。メタファーに満ちた人生を感じさせる台詞を朗唱することが演劇ではない。ただ、微妙にしてこれでなくてはならない感覚、言葉にはならない俳優の持つニュアンスを見せる。それが演劇と演出なのだと語っていた。サブタイトルにある「〜ほとんど、何もない〜」は、謙遜で、「〜ほとんど、何でもある〜」が正しいだろう。度胸と覚悟で、かろうじて成り立たせるぎりぎりの線を追求している。
俳優の技術に注目するのもいい。犬山イヌコ、山西惇、八十田勇一、大倉孝二と絶妙のセンスを持つ俳優を集めての味わい深い舞台である。
それにしても「腹話術師」と「人形」が頻繁に登場するのは、ほぼ同時期にシアターコクーンで上演されている第七病棟の伝説的名作森田、宮沢主演の『ビニールの城』(唐十郎作、金守珍演出)を強く意識してのことだろう。
とはいえ、ここまで書いた批評を受け「『ヒトラー、最後の20000年』をもう一度観ますか、どうぞ」といわれたらどうするか。もちろん鄭重にお断りする。