歌舞伎劇評 平成二十七年十月 新橋演舞場
コミックの『ワンピース』が歌舞伎になると聞いても、正直言ってイメージが湧かなかった。今回、舞台を観てから、対象となったシリーズの原作を読んで、なるほどと腑に落ちた。
歌舞伎の多くの作品は、忠節と自己犠牲をテーマとしている。大義のなかに踏みにじられていくアウトローの集団の破滅がたびたび描かれる。特に序幕は、白浪物と八犬伝物が容易に思い出され、ルフィを中心とした海賊の集団の離散。そしてルフィが貴種流離譚の変型として、女だけの島に渡り、その助けを得て、「海軍」に捕らえられた義兄弟のエースを救い出そうとする筋立てとなっている。
演出を中心になって勤め、ルフィとその難儀を救うハンコック、そして「止め男」に相当するシャンクスを演じる猿之助の奮闘公演といえば紋切り型に過ぎるだろうか。麦わら帽子を背負い、少年の無垢と勇気を代表するルフィは、まさしく適役で、役を生き生きと演じている。衣裳や化粧などがコミックに忠実なデザインでありながら、歌舞伎として違和感がないのは驚くべき翻案である。また、若女方に相当するハンコックは、ロングドレスを着るなど工夫をこらしつつ、後ろ姿とはいえ裸体も見せるから、これもまた忠実といって差し支えない。
役者のなかでは、ロロノア・ゾロ、ボン・クレー、スクアードの三役を演じた巳之助が自在な芝居を見せる。特に道化役ともなっているボン・クレーのゲイとしての描き方に精彩がある。単に笑いを取るのではなく、純情と傷つきやすさが役に込められている。「麦ちゃん、あんたならできるわ」とルフィに語りかけるときの誠実さが胸を打つ。また、花道の引っ込みでは、奇抜な衣裳にもかかわらず、歌舞伎の骨法を忠実に守ろうとしている。さすがは三津五郎家の継承者としてのたしなみと感心した。
白ひげの(市川)右近は、さすがの貫禄。マゼランの男女蔵も近年の憂鬱を払うかのような出来。歌舞伎では時に難となる長身を生かしてひたすら「かっこいい」隼人も見物だ。現代演劇の畑から来た福士誠治の身体能力の高さと様式的な演技への挑戦。幅広い役をなんなくこなす浅野和之の自由さも舞台を引き立てている。
サーフィンを使って、客席を斜めに横切る宙乗り、また戦闘のための技をいかに歌舞伎の引き出しとテクノロジーで舞台化していくか。さまざまな工夫が詰まっている。
単にこの舞台はコミックの歌舞伎化にとどまるのではなく、歌舞伎演出とは何か。歌舞伎役者の技芸とは何かに対する鮮烈な問いかけともなっている。少年コミックの典型で物語は、若い世代の成長譚の枠組みを取るが、このスーパー歌舞伎を通して、出演の役者たちがより自由で生き生きとした役作りの愉しさを身にまとうのではないか。そんな期待をこめて『ワンピース』を観た。十一月二十五日まで。