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2015年6月7日日曜日

【劇評21】『新薄雪物語』と顔揃い

【歌舞伎劇評】平成二十七年六月 歌舞伎座

『新薄雪物語』は、上演困難な狂言である。歌舞伎の主要な役柄を網羅しているために、大顔合わせでないと成立しない。そのわりにドラマとしての実質が十分とはいえないから、顔合わせの豪華さの割には、観客が劇に感動するのはむずかしい。こうした狂言の限界があるからこそ、今回の上演では昼の部、もしくは夜の部のみで『新薄雪物語』を通し、完結させるのをやめて、昼の部は『天保遊侠録』で幕を開け、夜の部は『夕顔棚』で打ち出したのだろう。労多くして、成果に乏しいのは、だれのせいでもなくこの狂言の性格によるのものだ。とはいえ「虫干し」ではないが、現在の大立者が健在なうちに、規範として上演しておかなければならない。だから歌舞伎興行はむずかしい。
さて『新薄雪物語』の序幕は、満開の桜が咲き誇る新清水が舞台の「花見」。奴妻平(菊五郎)と腰元籬(時蔵)が、それぞれ仕える園部左衛門(錦之助)と薄雪姫(梅枝)に恋の取り持ちをする。華やかな気分が満ち満ちた舞台ながら、奉納の刀を盗み取らんとする団九郎(吉右衛門)と続く国崩しの秋月大膳(仁左衛門)の登場から暗雲が立ちこめる。
若々しい吉右衛門が小悪党を徹底して下卑た調子で演じ、仁左衛門に巨悪の大きさがある。筋を追うよりも、歌舞伎の役柄がどのような身体によって成り立っているかを味わうべき一幕である。菊五郎に大勢の水奴がからむ。芯になる役者は最小限の動きで立廻りをさばくが、その典型を楽しめる。
続く二幕目の「詮議」は、大膳の計略に陥って、左衛門(錦之助)と薄雪姫(児太郎)が謀反の大罪の嫌疑がかかる。それぞれの父伊賀之助(幸四郎)と園部兵衛(仁左衛門)は苦渋するが、情にあふれた捌きを葛城民部(菊五郎)がつける。ややこしいのは前の幕で極悪人の秋月を勤めた仁左衛門が苦悩する父親に替わり、奴だった菊五郎が捌き役の上使に替わるところで、歌舞伎を見慣れた観客も戸惑いを隠せない。ただ、慣れてくれば、菊五郎の明瞭にして情味あふれる台詞回しと、幸四郎、仁左衛門の肚をじっくり味わえる。左衛門、薄雪姫の別れに、菊五郎が扇のかげでそっと手を握らせる件りに妙味。この幕の薄雪を勤める児太郎は当惑する姫を可憐に演じている。幸崎奥方の松ヶ枝は、芝雀。歌舞伎座の立女形にふさわしい位取りを出るだけでみせる。
夜の部に移って「広間」から「合腹」へ。左衛門は錦之助で変わらないが、薄雪は三人目の米吉。梅枝、児太郎、米吉、三人の個性と現況を楽しむのが配役の趣向となる。仁左衛門と魁春の夫婦が沈痛な面持ちで、預かった薄雪姫を嫁と思い落ちのびさせようとする。他方、左衛門を預かった幸崎がその首を打ったと首桶を持参し、怒りにかられて梅の方が自害しようとする件りがみどころとなる。魁春が六代目歌右衛門の品位と気迫を受け継いだ出来。父そっくりといわれるのは、歌舞伎役者にとって名誉だろう。
「合腹」では、すでに腹を切っている「陰腹」の肉体的な苦痛と内心の苦悩を、幸四郎と仁左衛門がそれぞれの個性を生かしつつ見せる。さらに仁左衛門にそくされて、妻の梅の方と三人で笑う「三人笑い」となる。リアリズムからは遠い表現が、どこまで観客に届くのかが勝負となる。梅の方、園部兵衛、幸崎の順だが、魁春に女性が子を思う悲痛さがあり、仁左衛門は肉体と精神が一体となる。さらに、幸四郎は自らの奥底を深く探る笑いでありながら、役の大きさをみせた。
大詰となる「正宗内」「風呂場」「仕事場」と進んで行く。この劇の締めくくりは正宗伜団九郎の吉右衛門が背負っていく。それを助けるのが正宗娘のおれん(芝雀)、下男吉介実は国俊(橋之助)五郎兵衛正宗(歌六)。歌六に精神と肉体を鍛え上げた刀匠の風格、職人がゆえの気むずかしさが漂う。吉右衛門はぶれることなくこの芝居をならず者の小悪党で通して、なお役者振りのよさを貫いた。
昼の部の『天保遊侠録』は三度目だが、不器用な生き方しかできぬ男を技巧に頼りすぎず、まっすぐに演じて好感が持てる。私が観た三日の子役が秀逸で、芝居をさらった。芝雀、魁春のふたりが対照的な女形の役を好演。国生がこれまた不器用な庄之助役を全身で演じている。児太郎の柳橋芸者も仇な風情が備わっていた。
夜の部の打ち出しは『夕顔棚』。踊りのよしあしよりも、菊五郎、左團次の洒脱な藝境を楽しむことに尽きる。踊りは巧いばかりがよいのではない。観客の心をいかに遊ばせるかなのだとわかる。また、巳之助、梅枝のふたりが若々しく、しかも狂いなく踊ってなんともすがすがしい。盆踊りへと行く人々を見つめながら、近づいてくる夏を想った。二十五日まで。