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2015年3月7日土曜日

【劇評10】『菅原伝授手習鑑』通し。本格の意味を問う。

【歌舞伎劇評】平成二十七年三月 歌舞伎座昼の部  本格であることの意味を考える。

三月の歌舞伎座は『菅原伝授手習鑑』の通し。仁左衛門中心の一座に、左團次、秀太郎、魁春、歌六が加わり、松緑、菊之助も参加する。三大名作といわれる古典中の古典。義太夫狂言の代表的な作品である。それがゆえに、今、現在の歌舞伎俳優の力量が問われる舞台となった。
序幕は「加茂堤」。菊之助の舎人桜丸に、梅枝の桜丸女房八重。主君の色事を手伝う夫婦なので、下卑た笑いに堕ちるのを、このふたりの清潔な芸風がとどめている。反面、親王と姫が車に入ってから、むつ言を聞いて「女房ども、たまらぬたまらぬ」と抱き合うときの色気が薄い。この仲のいい夫婦の息は、日にちが経つうちに熟成されてくるだろう。梅枝は菊之助の女房役として、不足のない芸を見せるようになった。若女方の筆頭にいるといって差し支えない。萬太郎の齋世親王、壱太郎の刈屋姫は、いかにも初々しい。この悲劇の発端が、若い二人とまだ世知に乏しい夫婦によって起こったことがよくわかる。亀寿の三善清行はほどがよい。
二幕目は「筆法伝授」。昭和十八年の歌舞伎座で復活した幕がすっかり定着した。「奥殿」では、染五郎の源蔵、梅枝の源蔵女房戸浪の出が神妙。主家をしくじったふたりの沈潜した心持ちが衣装の工夫ばかりではなく、身体に通っているから場が落ち着く。迎える仁左衛門の菅丞相の威厳、御台園生の前の情味、いずれも源蔵、戸浪のありようと対になって、四人の複雑な思いがありありと浮かび上がってきた。橘太郎の稀世が、緊張した場を救う。橘太郎は幹部になってから、ますます芸が自在になってきた。
続く「学問所」は、菅丞相から源蔵が筆法を伝授される件り。稀世に邪魔をされながらも、苛立ちさえもみせず、筆写に打ち込む源蔵、その姿を端然と見守る菅丞相。仁左衛門、染五郎いずれも本格をめざして揺るぎがない。この場をきっちり成立させてこそ続く「道明寺」へ向けて菅丞相の肚が観客へ伝わる。「門外」は、菅丞相が引きたてられて、太宰府へながされていく。また、愛之助の梅王丸が、源蔵夫婦に菅丞相の嫡男菅秀才をあずける。愛之助は短い場面ながら、忠義の人であると伝えている。昼の部夜の部を通して、愛之助は一貫してよき梅王丸を見せる。
そして、昼の部の見どころとなる「道明寺」である。ちょうど五年前の歌舞伎座で仁左衛門は、玉三郎の覚寿を相手に「道明寺」を出している。そのときと比べても、仁左衛門の芸境はさらに澄み渡り、菅丞相の乱れのない心の内が伝わってきた。
今回の覚寿は秀太郎。枯れ果てた身体に一本芯の通った精神が見て取れる。刈屋姫とその姉立田を折檻する「杖折檻」の絶望の深さが比類ない。
歌六の土師兵衛と彌十郎の宿禰太郎が巧みな芝居を見せる。芝雀の立田を殺害して、鶏を早鳴きさせる「東天紅」の場面では、歌六、彌十郎、芝雀と腕のある三人が芝居を運び破綻がない。これもまた「本格」への意思にとどまらず、こうした場面でもおもしろさを観客に伝えようとする誠実が感じられる。芯をとる役者だけではなく、脇が充実してこその古典だと納得させられた。
菅丞相を迎えるのは判官代照国の菊之助。菅丞相と対になる役だが、軽さがみじんもなく、弁慶に対する富樫の位置づけで演じているようだ。媚びのない誠実がこもる。
菅丞相が木造と本物を演じ分ける件りは、どうも操り人形めいて、私自身は好きではない。けれど偽りの使いがわかり、ふたたび上手屋台に納まってからの仁左衛門の静謐なありようは、この年齢、この舞台歴をあってこそのことだろう。荒事や派手な演出に代表される動の歌舞伎がある。それとは対照的に、芯にある人の心の内を観客が息をつめて見詰める静の歌舞伎もある。二十七日まで。