長谷部浩ホームページ

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2015年2月17日火曜日

【エッセイ3】野田秀樹の軌跡3

事件としての演劇をめざして
一九九一年の八月、野田はこれ以降の拠点となる渋谷のシアターコクーンにはじめて登場する。客席数七○○の中劇場は、このとき開場したばかりであったが、広すぎず、狭すぎず、しかも渋谷の至便な場所にあって、 野田の作品世界を実現するには、もっとも適した場所であったろう。ロンドン留学を経て、九四年、『キル』をひっさげて、ふたたび東京に戻ったとき、野田が選んだのも、この劇場であった。
『TABOO』『ローリング・ストーン』『カノン』『オイル』『贋作・罪と罰』『ロープ』『パイパー』と、ずいぶんたくさんの作品をこの劇場で見た。日本経済新聞で新聞劇評を担当している間は、劇評を書くまでは野田と作品の話をしないように決めていたが、二度、三度、重ねて観たときは、会って話すのを楽しみにしていた。劇場下手の通路を通って、小道具を横目に、舞台袖を抜け、地下に降りる。野田は個室より、他の男優たちと大部屋にいるのを好んだ。芝居が終わったあとに、缶ビールを開けて、長話をするのが、いつもの習慣だった。
一度だけだが、野田と議論になったのを覚えている。幕切れの演出について、私が注文をつけたことに、野田が反論してきたのである。出演俳優たちが何の騒ぎかと集まってきたほどの勢いだった。一五分くらい議論は続いたような気がする。なぜ、私は、あんな余計なことを言い出したのだろうか。野田との距離を見失っていたのだろうか。今振り返ると恥ずかしく思う。
代表作というべき『パンドラの鐘』を観たのは、世田谷パブリックシアターである。このとき、雑誌『文学界』に、野田の戯曲とともに長文の劇評を書く予定であった。公演中に、新聞ではなく雑誌に、まとまった枚数の劇評が載るのはめずらしく、私は緊張していた。しかも、同時期に蜷川幸雄演出の『パンドラの鐘』が、シアターコクーンで幕を開けている。このときの初日ほど、張り詰めた気持で舞台に向かったことはない。
演劇的事件、いや事件としての演劇を、蜷川も野田も、めざしていたのだろう。舞台が演劇の世界にだけとどまることを潔しとしないところで、ふたりは共通していた。当時、私は蜷川を一年半かけてインタビューしていた途中だったので、この競演を興味深く観た。ふたりの演劇人としての出自の違いが、鮮明になった舞台だった。
新国立劇場中劇場では、『贋作・桜の森の満開の下』と『透明人間の蒸気』を観た。演劇がもっとも苦手とする表現は、全力疾走だろうと思う。シアターコクーンの舞台では、舞台を横切るように走っても速度がピークになる前に、壁につきあたってしまう。その意味で、広大なバックヤードを持つ新国立劇場は、野田のつねに疾走していたい欲望を満たしてくれる唯一の劇場であった。当時、野田は、新国立劇場がレパートリーを持ち、これらの作品を繰り返しキャストを変えて上演すればよいと主張していたが、結局、実現せずに終わってしまったのが残念でならない。

海外の劇場を走り抜ける

番外公演というのが適切かどうかわからないが、少人数のキャストによる作品を立て続けに発表した。『Right Eye』『農業少女』、タイ版『赤鬼』の初演は、シアタートラム。『売り言葉』は、スパイラルホールで観た。
俳優としての野田秀樹を味わい尽くすには、こうした小空間がふさわしい。拡大を続けてきた野田が、いとおしむようにこの一群の作品をつくりはじめたのも、時代の趨勢だろうか。生きることではなく、死ぬことを主題とした作品群が、こうした劇場で生まれていった。
ロンドンやソウルの劇場も、こうした作品を発表するために選ばれていった。『RED DEMON』のヤングヴィックシアター、『パルガントッケビ』(赤鬼韓国ヴァージョン)の韓国文芸振興院芸術劇場小劇場、『THE BEE』 『ザ・ダイバー』のソーホー・シアターに、これらの作品を観るために飛行機に乗った。
旅はどこか解放感がある。
日頃の敷居をまたいで、毎日のように野田と会った。特にソーホー・シアターは、劇場の一階にバーとレストランが併設されており、芝居が終わると野田は若い友人たちに囲まれて飲むのを好んだ。東京では近づきがたい存在に、もはや野田秀樹はなっていた。日本やアジアの留学生に囲まれ、友人として話し込む姿を何度も見た。
ひとしきり話すと向かいのインド料理店や中華街に繰り出した。私は東京で野田と食事に行ったのは数えるほどだけれど、海外ではよく話した。舞台についてだけ話していたわけではない。他愛もないばか話もずいぶんした。野田は飲むと陽気になった。しかも、笑顔の魅力がさらに輝きを増す。才能はもとよりだけれども、この笑顔に惹きつけられて、人々は野田のもとに集まってきたのだと思った。
すでに演劇界に確固たる地位を築いたにもかかわらず、野田が偉ぶるのを見たことがない。特に若い俳優に対しては、対等に接するのを好むのを目撃してきた。劇作家・演出家ではなく、同じ舞台を踏む同僚として、若い世代とかかわろうとしている。演出家は孤独である。野田は決して巨匠にならないことで、孤立を避けているように思える。
悲しい思い出もある。
ヤングヴィックシアターの二〇○三年『RED DEMON』は、過酷で理不尽な新聞評にさらされて、不入りであった。駒場小劇場から現在まで、つねに満員の客席に向かって芝居をしてきた野田にとって、これほどの屈辱はなかったろうと思う。評論家の私が言うのはおかしいが、ザ・タイムスの評を読んで、身が震えるような恐怖を味わった。
『RED DEMON』の不評をはねかえした『THE BEE』のときは、素直にうれしかった。三年が経過していた。ソーホーシアターのロビーが、興奮した観客の熱気で沸き立つようであった。ああ、これが成功の味というものだなと思った。野田はこうした夜をたびたび味わい尽くしてきたのだなと改めて実感した。
○一年、八月納涼歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』初日。今はもうない歌舞伎座でカーテンコールが巻き起こったのも、まさしく事件であったろうと思う。
『文学界』に書いた劇評の締めくくりに、私は、
「幕が引かれても、私はしばらく動けなかった。ただ、万雷の拍手が歌舞伎座に轟くのを聞いていた」(『野田秀樹の演劇』河出書房新社 二○一四年 一五七頁)
と書いている。
装置の堀尾幸男、衣裳のひびのこづえと手を取り合うようにして喜んだ。なぜか、この日は野田と会わなかった。ふたりは初日祝いの席に行ったように記憶している。私はひとり、夜の道を帰った。劇評家であることは寂しいものだなと、その日ばかりは思わずにはいられなかった。けれど、この作品がなければ、私が歌舞伎評に手を染めることはなかったと思う。
○九年、野田秀樹は東京芸術劇場の芸術監督に就任する。その記念プログラムとして、芸術劇場の小ホールで『ザ・ダイバー』の公演が行われた。ロンドンで観た作品の日本版である。芸術監督とは、劇場のまさしく顔であろう。これまでなじみが薄かったこの劇場に、これからは通い詰めるのだなと思った。
長い旅はまだ終わっていない。