長谷部浩ホームページ

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2020年12月14日月曜日

【劇評178】三島由紀夫の情熱と冷血。麻実れいの『班女』をめぐって。

 冷ややかな情熱という言葉がある。  もちろん形容矛盾ではあるが、どうもある階級の人々には、情熱のなかに、度しがたいばかりの冷血が潜んでいるようで、三島文学の主題は、この情熱と冷血をいかに作品に共存させるかに腐心していた。  もっとも、小説よりも戯曲が有利なのは、この情熱と冷血を体現する俳優を配役すれば、おおよその仕事が済む。   それは、少し乱暴に言いかえれば、様式的な演技に終始しつつも、ほの暗い情熱の炎を隠している役者。あるいは、情熱的であることは、観客にとって空疎に受け止められる不思議を会得している役者ともいえるだろう。  三島由紀夫作、熊林弘高演出の『班女』は、このような三島と俳優の二重性を残酷なまでに映し出している。  冒頭から絵描きの実子(麻実れい)にオーケストラピットで、新聞を読ませている。駅頭で恋人を待つ花子(橋本愛)の記事がのった新聞である。はじめの実子と花子のやりとりは不実であり、花の虚を現している。  のちにかつて花子を捨てた吉雄(中村蒼)が上手袖から登場するが、宝塚でいえば銀橋、オーケストラピット前面にある通路を主なアクティングスペースとする。  また、この戯曲には、「班女の扇」が、棒との実子の台詞に登場する。 「あるところで知り合った男が、又会う日のしるしに扇を交換した。今狂女の抱えているのは、夕顔を野花を書いた男の扇、不実な男が持っているのは、夕顔の花をえがいた彼女の扇。男はいつかな現れず、待ちこがれた末に狂ったのだという」とある。  演出家は、観客の想像力を信じていないのだろう。扇の現物を舞台奥に映像で映し出すことさえしてしまう。  また、俳優が情熱的に振る舞おうとすればするほど、そこには、冷ややかな心が宙づりになり、観客は客席に置き去りにされてしまう。  私はこれまで数々のすぐれた舞台を積み上げてきた麻実れいの技藝に満足した。ただし、それは、彼女が遠い世界の住人であって、この世には棲息していないと語っていた。その意味で、麻実は永遠の煙草拾いの小野小町であり、三条御息所なのであろう。  花子はまさしく美しいがゆえに暴虐を尽くす人形であった。橋本の暗い眼差しをおもしろく思った。吉雄は、きまぐれな冷酷さが必要である。中村は優しい才子に見えてしまっていた。  すなわち、この『班女』は、あまりにも半時代で、三島由紀夫に忠実である。  そこには、感動はなく、形式に対する憧憬がある。その不毛さこそが三島なのだと語りかけている。これが様式の不毛を訴えたい演出家の確信なのか、それとも三島とともに狂いたいという情熱的な願いなのかは、私にはわからない。

【劇評177】三島的ではないが、血の通った加藤拓也作・演出の『真夏の死』。

 三島由紀夫については、深い思い入れがある。 もちろん私は小説家としての三島を『花盛りの森』から読み始めた。劇作家としては、なにがもっとも先行していたかは難しいが、おそらくは『サド侯爵夫人』か「近代能楽集」のなかに納められた一幕物だったろう。  今回、三島由紀夫ボツボ五十周年企画として『MISHIMA2020』が、日生劇場で上演された。何分、上演期間が限られているので、『憂国』と『橋づくし』は、見逃した。  今回は『真夏の死』について書く。  私は『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社 平成二年)の上下巻を愛用している。『真夏の死』は、百枚の中編ともいうべき小説であり、三島によって戯曲化はされていない。作・演出の加藤拓也は、この荘重な形式によって血液を失った蒼白の物語に、血を通わせた。  三人の子供と避暑に来ていた朝子(中村ゆり)は、海辺での事件に巻き込まれる。義理の妹に預けていた子供のうち、ひとりを残し、ふたりと妹は、溺死してしまった。朝子が傷心のうちに駆けつけた夫勝(平原テツ)を迎える。季節が過ぎ、夫婦がいかに、日常を取り戻そうとし、いかに、苦悶していくかが描かれている。  加藤の翻案は、三島の世界観から自由である。  三島が、小説の叙述の順序について、こだわりぬいているのに対して、なによりもまず、幼い子供を亡くしてしまった若い夫婦の心情をすくいあげようとする。  三島がおそらくはチェーホフの『桜の園』を意識していた物語の動力、ドライブモーターといってもいいが、その有効性を信じている。  世の中には、子を亡くした母ほどの根源的な悲劇をかかえた存在はいない。それは、令和の現在も変わらない。  形式よりは、血と肉と涙が重要なのだと、三島の世界観に異議申し立てをしている。  この舞台を支えるのは、音響や装置を駆使した加藤の演出ばかりではない。中村の自らを突き放した自我のありよう。迷いの中で、ついには結論を見いだせず、そのまま再び、事件のあった海岸へ導かれていく弱さが、よく描き出されている。  また、夫の平原もすぐれている。  そこには、家族に、いや家に何が失われてしまったのかを突き詰めることさえできずに、関係の修復だけを性急に急いでいる夫がいた。自らの考えを肯定できない人間の苦みが、平原によってよく表現されていた。  三島的ではないが、きわめて加藤的な佳品となった。

【劇評176】緒川たまきのコケットリーと高田聖子の胆力。ケラリーノ・サンドロヴィッチのコメディを観て。

 久し振りにコロナウイルスの脅威を感じることなく舞台に接した。少なくとも、休憩がはさまるまでは、舞台に引き込まれて現実を忘れた。  ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出の『ケムリ研究室 no1 ベイジルタウンの女神』が、世田谷パブリックシアターで上演されていた。上演期間のほとんどは、客席を半減しての上演だし、劇場入口での検温や手洗い、半券の処理も他の劇場と変わらない。  それにも、かかわらず、劇がはじまったとたんに、私たちは、この架空のベイジルタウンに飛んで、乞食たちの楽園へと遊ぶことになる。  こうしたファンタジーが可能になったのは、KERAの劇作は、いい意味で荒唐無稽であることを怖れていないからだろう。  荒れ果てた地区を再開発するために、そのプロジェクトの責任者、女社長のマーガレット・ロイド(緒川たまき)は、一月の間、身分や資産を持たずにタウンで暮らす。そのきっかけとなったのは、ライバルの女社長タチアナ・グリーンハム(高田聖子)との賭けによるものだった。  マーガレットは、この街で、王様と呼ばれる男(仲村トオル)とその妹ハム(水野美紀)と一歩一歩、歩み寄り、理解しあうようになっていく。  奇妙な夢想のなかに生るドクター(温水洋一)やサーカス(犬山イヌコ)は、いかにもケラリーノ・サンドロヴィッチの架空の街の住人らしく、楽しく、悲しく、たくましく生きている。その意味で、この物語は、貴種流離譚であり、成長物語でもある。  この物語の類型を踏襲した舞台が愉快に思えたのは、緒川たまきの浮遊した独特の個性によるものだろう。  どんなお伽噺も彼女のコケットリーが説得力を持たせている。対になる高田聖子もまた、独特の現実感があって、かつてはお嬢様と小間使いだったふたりの複雑な因縁を蘇らせていく。このふたりだけの秘密が掘り起こされるために、すべての物語はある。  多人数の群像劇であるために、長時間になるのは、いたしかたない。  しかし、ここでまた、コロナの現実が私たちを襲ってくる。休憩なしの二時間半くらいが、夢想に溺れて、苛酷な今を忘れるぎりぎりの時間なのではないか。  時間が、私たちを、現実に引き戻そうと強大な力を振るっていた。  

【劇評175】現世の人の身の背後に、亡霊が。玉三郎の『口上 鷺娘』にこぼれる悲しみ。

 一九八六年にアンドルー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』が誕生した。ガストン・ルルーの小説を原作とした舞台は、世界を席巻した。才人、加納幸和は二○○一年に福島三郎との共同台本で、『かぶき座の怪人』という自由な翻案を作り上げたのを思い出す。  この九月、第四部に用意されていたのは、映像×舞踊 特別公演と副題がついた『口上 鷺娘』である。  襲名でも追善でもないから、「口上」は地方巡業でよく行われるようなご当地での挨拶と思っていた。  この予想は見事に裏切られた。現在の第五期歌舞伎座の奈落と迫り上がりの機構を案内するものであった。  玉三郎には、篠山紀信の写真を得た『完全保存版 ザ歌舞伎座』がある。  二○〇一年に解体された旧歌舞伎座を隅々まで案内した写真集である。 香港の九龍城に似ているとまでいわれた旧歌舞伎座の迷宮を、歌舞伎役者たちがいかに愛していたかを私たちは知っている。剥き出しになった配管や配線、いつだれが置き忘れたともわからない荷が廊下に積まれていた。  今回、玉三郎が案内するのは、徹底して合理化され、コンピュータ制御が行われた舞台機構の現在である。  一度機会に恵まれて奈落を案内されたことがあるが、まるでモダンな工場、実験室を見るようだった。  今回のリアルタイム映像は、梅ゼリやスッポン、鳥屋に玉三郎自身がいる。  衣裳を着けた役者がセリに乗っている姿は圧巻であった。いかに奈落がカミオカンデのような異次元の風景に変わっても、歌舞伎座のどこかに怪人が住んでいるのだと、改めて信じさせてくれた。  玉三郎は、歌舞伎座という存在自体が、スペクタクルであり、その蠱惑の根源であると知り尽くしている。  さて、『鷺娘』であるが、五千回踊った演目だけに、この歌舞伎舞踊家にとって、もっとも大切な舞踊劇だとよくわかった。  すでにささよなら公演で本人によって封じられているから、舞踊そのままではない。映像と交錯している。  地方も、さよなら公演のときに収録した音が使われ、現実に玉三郎が踊るときも、この音に乗っている。  簡易版筋書の連名は二○○九年一月に舞台にのった演奏家たちの名前である。  現実と映像が交錯する『鷺娘』を見ながら、玉三郎が現実と幻に強くひかれているとよくわかった。  たとえば近年、菊之助や七之助を相手に上演してきた『京鹿子娘二人道成寺』がある。  ここで役名が、白拍子花子、白拍子桜子とされている場合もあるが、実は、現世の人の身の背後に、亡霊が重なって生きている解釈であろう。  今回の『鷺娘』、二○○九年一月の玉三郎と二○二○年九月の玉三郎が、ひとつの舞台に立つ。ふたりは、同じ名前を持った人間でありながら、まったく違う存在でもある。  映像のなかにいる私は、あなたであって、私ではない。そんな痛切な告白であるように思われた。  時はとどまることなく、人の世は移りゆく。   その悲しみばかりがこぼれていた。

【劇評174】幸四郎の冷酷と猿之助の妄執。怨嗟にあふれる世界を撃つ舞踊劇「かさね」

 四部制は、間の消毒の時間を考えると、ひとつの部の上演時間に制約がある。また、半通しのような上演形態もむずかしいだろうと思う。  観客の満足度を考えると、ドラマ性のある舞踊劇で、できれば道具の仕込みに手間がかからない狂言がふさわしいという結論に達する。  九月も舞踊劇が『かさね』、『鷺娘』と二本舞踊劇がでたのは、こうした興行の上の都合もあってのことだろう。先月の猿之助、七之助による『吉野山』は、万事が派手で、観客の拍手を集めていた。  さて、第三部は、幸四郎の与右衛門、猿之助のかさねによる『色彩間苅豆』「かさね」。  四世鶴屋南北による怪異な舞踊劇だが、幸四郎、猿之助、ともに仁といい、柄といいこの役にふさわしく満足感がある。  与右衛門は、『東海道四谷怪談』の伊右衛門とも通じる色悪で、幸四郎はこうした冷酷さで女を狂わせる男を勤めて成果をあげてきた。  今回も、左目が潰れ、顔が爛れてしまったかさねを見て、気持ちを寄せるどころか、鏡を突きつける件りにためらいがない。人の心の怖ろしさ、身勝手さが迫ってくる。  猿之助は、人生に自棄になった女を演じて生彩がある。かさねはここで、もう、自分が愛されなくなったと知っている。それにもかかわらず、与右衛門に対する妄執を捨てきれない。その執着心の強さと背負った業のあわれが、特に後半、観客の肝を冷やした。  「因果」は、人の心の取り憑いて、次の行動、次の悲劇を生んでいく。  かつて親が犯した罪が、ふたりを襲う。かさねは怨霊となって与右衛門を逃しはしない。  いったん花道から引っ込んだ与右衛門を、かさねは連理引きで呼び戻す。このときのあさましいふたりの姿に、怨嗟にあふれた世界を生きる私たちは何を見るのだろうか。  捕手は、隼人と鷹之資。神妙の勤めている。この世代に少しでも勉強の機会をと願う。  清元の浄瑠璃は、延寿太夫。三味線は菊輔。

【劇評173】アメリカの六〇年代と現在を結ぶ。深い考えに沈ませるミュージカル『violet』。

 この四月、コロナウィルスの脅威のために、ミュージカル『violet』(ジニーン・テソーリ音楽 ブライアン・クロウリー脚本・歌詞 芝田未希翻訳・訳詞 藤田俊太郎演出)の日本版公演が中止になった。  悲運なと思ったが、まさか半年を待たない九月に、三日間とはいえ公演が実現するとは思ってもみなかった。  制作にあたる梅田芸術劇場の並々ならぬ思いがあってのことだろう。  私はロンドン公演を観ていない。 今回、はじめてみる『violet』は、人間存在の本質に深く踏み込んでいる。  まずは一九六四年の中西部アメリカ。ベトナム戦争前夜の庶民の世界を描いている。  十三歳のときに父親が操る斧で顔に傷をおった少女ヴァイオレットは、その死の三年後、タルサに向かって、グレイハウンドバスで旅立つ。  この地を拠点とするテレビ宣教師に、その傷を治し癒やしてもらいたいと真剣に願っているからだ。  ヴァイオレット(唯月ふうか、優河 ダブルキャスト)が、その旅のなかで、偶然乗り合わせた黒人の兵士フリック(吉原光夫)と白人兵士モンティ(成河)と、愛憎にあふれた三角関係に陥る。  この旅のなかで、少女時代のヴァイオレット(稲田ほのか モリス・ソフィア ダブルキャスト)と父親(spi)の思い出が交錯する。  保守的な老婦人(島田歌穂)とも交錯する。ついにめぐりあった宣教師(畠中洋)は、疲れ切ったショーマンに過ぎなかった。   アメリカの六〇年代がかかえていた深刻な問題が描かれると同時に、政治的、社会的な文脈ばかりではなく、個人の精神が病み、疲れ、蹂躙されていたことを描いている。  当然のことながら、これは当時のアメリカを描いた風俗劇であると同時に、人類がかかえこんだ普遍的な問題を扱っている。  ヴァイオレットが顔に負った傷とは、私たちにとっての「何」にあたるのかが、劇中で常に問われている。  そのメタファーは、観客個人によって違う。  そして、自分の内面に見つけた問いに対して、解答を見いだすのは、観客の仕事である。  その意味で、『violet』は、愉快なミュージカルではない。むしろ考えよと突きつけてくるミュージカルである。  藤田俊太郎の演出は、このバスの旅、そしてヴァオレットの移りゆく心象風景を描くのに、回り舞台を使う。  背景には、モノクロの映像をときに使って、現在と過去を際立たせる。万事、行き届いて、現在と過去、六〇年代と現代を行き来する回路に、人々の思いがスムーズに流れている。  ただし、問題もある。  盆を使ったために、あたかも群像劇であるかのような印象が強い。 この作品の中心はあくまで、ヴァイオレット、フリック、モンティそして父親であり、この四者を中心に見せるには、盆の働きがいささか邪魔になる。  また、原作の問題でもあるが、ヴァオレットとモンティの諍いを徹底して演出していないために、幕切れのヴァイオレットの改心が唐突に見える。  また、幕切れの上からの光を使った演出も、ヴァオレットとモンティの将来が明快に示されていない。  問題点はあるものの一級品のミュージカルであることはいうまでもない。 こうした内容的には辛い作品にもかかわらず、観客を怯えさえたりはしない。そのかわりに深く考えに沈ませるのは、作品に関わるキャスト・スタッフの心象風景が、確実に反映しているからであるように思えた。

【劇評172】新型コロナウィルス下の「対面」上演のむずかしさ。

 九月の歌舞伎座は、四部制の第一部に『対面』がかかった。言わずと知れた曾我狂言の代表的な作品であり、きわめて様式性が強く、歌舞伎座の間口の広い舞台をさまざまな人物が埋め尽くしていく。  芯となるのは、「工藤館」とあるように、座頭役の工藤祐経で、今回は梅玉が勤める。立女形が勤める大磯の虎は、魁春。六代目歌右衛門の手元で育ったふたりが、工藤と大磯の虎かと思うと、ゆかしい心地がする。  この工藤に立ち向かうのは、松緑の五郎時致と錦之助の十郎祐成。  荒事と和事の代表的な役だが、役者の仁と柄が共にとわれる。怒りと柔らかさのせめぎ合いを愉しむ劇である。  今回、『寿曽我対面』の骨格を体現していたのは、又五郎の小林朝比奈と、歌六の鬼王新左衛門。  又五郎は、この芝居の祝祭性をよく理解して、理に落とさず、なお、言葉は名跡である。歌六の鬼王は、出のとき、線が細いかと思ったが、友切丸を持参する役だから、やりすぎないでさらりとやって本寸法になっている。  坂東亀蔵の小藤太成家、莟玉の八幡太郎がすっきりと芝居を運ぶ。米吉の化粧坂の少々は可憐で花を添える。  かつて、亡くなった勘三郎は、平成中村座には、劇場として似合う演目とそうでない演目があるといった。  現在、歌舞伎座は、客席を半減し、厳格なアナウンスとチェックが行われ、しかも開演中も晴海通りへ向かって開け放たれている。  もちろん役者が悪いわけではない。「対面」は、歌舞伎座にふさわしい演目だと思うが、今の劇場の雰囲気でこの狂言を高い水準に持って行くのは、残念ながらきわめて難しい。

【劇評171】吉右衛門、東蔵、雀右衛門、菊之助。「引窓」が照らし出す歌舞伎の未来。

 九月歌舞伎座、久し振りに一級の義太夫狂言を観た。  平成から令和を代表する時代物役者といえば、吉右衛門の名前がまっさきに挙がる。  四部制をとって、歌舞伎座が再開されて二ヶ月。本来は、これまで初代吉右衛門を記念して秀山祭行われていたが、残念ながら変則的な狂言立てとなった。  そのなかで、吉右衛門が満を持して出したのが「引窓」。『双蝶々曲輪日記』のなかでも、親子関係のむずかしさ、なさぬ仲の辛さを描いて普遍性を持つ。  また、明かり取りの窓と、仲秋の名月、放生会の日を描いて、趣向がおもしろく、情趣にあふれている。  今回の上演は、吉右衛門の長五郎、東蔵のお幸、雀右衛門のお早、菊之助の与兵衛の配役である。吉右衛門の時代物を支えてきたふたりの女形に、清新な二枚目が加わった。  嫁と姑にあたるお早とお幸が語るうちに、糸立てに身を隠し、白手手拭で頬被りをした吉右衛門の濡髪長五郎が花道から駆けて出る。この「出」がまず、見事で、からだをまるくしているが、相撲取りであり、今は罪を犯して負われる身分であると語り尽くしてしまう。  しばし本舞台で実母のお幸と語り、立ち上がって、嫁のお早から煙草盆を渡され、上手の二階座敷へと去る。この姿もほれぼれとする色気である。 相撲取りが人気商売であり、腕力だけではなく、色気を売るのが本質だと思い知らされる。東蔵は、実母の慈愛にあふれ、雀右衛門は突然のことに、戸惑う廓上がりの女の可憐さがよく出ている。  やがて、菊之助の与兵衛の出である。  町人でありながら、侍に取り立てらた喜び。歌昇の平岡丹平、種之助の三原伝造を案内する丁重さ。  ここで菊之助は、肚を割らず、無邪気な歓びに恵まれた青年を弾むように演じている。二人侍をお幸の隠居所へ誘い、世話木戸を入るところで、髷をなでつけ、羽織を直す。単純な型だが、この人にかかると、観客も晴れがましさをともにできる。  さぞ、うれしかろう、早く義理の母と愛妻に教えてやりたい気持ちに共感する。  雀右衛門のお早とのやりとりでは、澄み切った心持ちになる。預かった十手などを自慢する与兵衛とは対照的に、お早の心は淀んでいる。  お早が引窓の綱を引くと引窓が閉じる。光にあふれていた与兵衛の家が、急に暗くなったような心地さえする。  事態は暗転していく。手配書にあたる絵姿を義理の息子に売ってくれと懇願するお幸の辛さ、この成り行きに母の苦しみを探っていく与兵衛。  肚と肚の探り合いである。  さては、実の息子が来ていたのかと気がつく件りがきっぱりしている。「あなたはなぜものを書くしなされまする」。義理の仲であるがゆえに、心を許してくれない母をなじる件りだが突っ込んだ芝居にしたい。  手水鉢を使って、二階屋台の濡髪と見合う決まり、続いて四人の決まりが続くが、さすがにこのあたりは、吉右衛門が全体を小気味よく収めている。  さらに、与兵衛がすべてをのみこみ、腰の大小を置いて、「丸腰ならば今まで通りの南与兵衛」と、万難を排して長五郎を落ち延びさせ、義理の母の苦渋を救おうと決意するあたり、小気味よい青年の純粋にあふれている。 このやり方で間違いはないが、自らの登場が家の運命を狂わせてしまった長五郎の屈折と拮抗する肚でありたい。  鏡が用意されて、お幸が長五郎の見た目を変えていく。  周到な段取りを切々とした芝居で運んでいくのは、吉右衛門、東蔵の息が合っているから。いや、自在な藝境を競っているからだろう。  与兵衛が屋台に戻ってくる。お幸が後ろ手に縛った縄を切ると、引窓が開いて、秋の明るい月光が差し込む。四人の暗澹たる気持ちが一気に晴れる。  未来はわからない。けれど、今、四人の心がひとつになり、希望がさした。そう感じさせるからこそ、舞台面が明るくなる。  与兵衛が路銀として長五郎の金を渡す。ふたりの手と手がしっかりと結ばれる。  縁があって、絆が生まれる。そして、今日が終われば世界が消えるわけもなく、だれもが明日へと歩みを進めなければならぬ。  型を守り、歌舞伎を伝えていく。そのまっすぐな覚悟が伝わってきた。    

【劇評170】 純粋な言葉が細い鋼のように。野田秀樹作・演出『赤鬼』Dチームを観て。

 まっすぐに言葉を伝える。  簡単に思えるが、実はそうではない。 人 間は、正直に、じぶんの思いを言葉にのせるとは限らない。内心を隠すために、言葉が費やされることもある。  Dチームによって上演された『赤鬼』(野田秀樹作・演出 東京芸術劇場シアターイースト)を観て、そんなことを考えた。それほど、今回の上演は、戯曲の言葉を交じりけなしに伝える。愚直なまでに演劇の根本を大切にしていたからである。  私自身、これまでも、さまざまな論点からこの劇について語ってきた。野田秀樹の特質は、フィジカルシアターとみせながら、詩的な言葉がぎっしりと詰まった文学でもある。  フィジカルな面からいえば、村人たちがシャンプーをしたり、肩もみをしたり、どんな危険があっても、日常を保たなければならない現実をおもしろく観た。  こうしたさりげない場面に、まさしく新型コロナウィルスとの共生を強いられた私たちの現実が読み取れる。しかし、果てしなく繰り広げられる身体言語の氾濫、その遊びを統べるかのように、純粋な言葉が細い鋼のように張り詰めていたのだった。  思い出深い場面がある。  あの女と赤鬼とトンビが、ひとつひとつ言葉をおぼえていく。  まずは、お互いの名前を発見し、ついには「海の向こう」という理想郷を伝えようと願いはじめる。どのヴァージョンであろうとも、再演のたびに、この発見の件りに私は心を動かしてきた。  今回は、言葉が意味をまとうときの困難とパントマイムによる身体性が、実に巧みにからみあっていた。  人間はどんな絶望の淵にあっても、言葉と身体をくりだして、かすかな希望を見つけ出そうとする。次第に私たちの思いは、力を取り戻して、蘇っていく。青ざめていた顔に、血がかよっていく。そんな不思議を観たように思った。  こうした芝居を支えたのは、キャスト全体のちからだろう。  あの女の北浦愛は、決して他者に媚びることのない女のまっすぐな気性をよく伝えた。トンビの松本誠は、はじめ、しっかりとした体躯とそり上げた頭に違和感をもったが、次第に、妹思いの兄という根本的な性格を伝えた。ミズカネの吉田朋弘は、欲望と理性の間に揺れまどう人間の本性を描き出していた。赤鬼の森田真和は、初日に観たときよりも数段、怖さが増している。そして怖さのなかに、限りない優しさが感じられた。  そして、個性がくっきりとした村人たち。石川朝日、石川詩織、上村聡、近藤彩香、白倉裕二、谷村実紀、手代木花野、能島瑞穂、水口早香、茂手木桜子、八木光太郎、吉田知生、吉田朋弘、竜史が舞台の縁に座っているときも、その表情を追わずにはいられなかった。  いずれ、コロナウィルスの脅威は去り、辛い記憶も薄れ、日常のリズムが戻るのだろう。でも、忘れられないこともある。「勇気と闘志にあふれ、しかも純粋でまっすぐな舞台があったよ」。今回の『赤鬼』上演の試みは、懐かしい思い出として、そう語り継がれるだろう。

【劇評169】 猿之助、七之助の万事派手な「吉野山」。藝と笑いの「源氏店」は、幸四郎の戦略に貫かれていた。

 社交の場でもなければ、消閑の場でもない。舞台と観客席が、真摯に向かい合う歌舞伎座となった。    唄も三味線も鳴り物も黒いマスクを付けている。まるでアラビアンナイトの盗賊團といったら叱られるだろうか。  このマスクが来月も続くようであれば、立唄や立三味線は、さりげなく家の紋が入った特製をぜひ付けていただきたい。遊び心があれば、舞台はいよいよ楽しくなる。  第三部は、『義経千本桜』の「吉野山」。清元の地。猿之助の源九郎狐に七之助の静御前。猿弥の逸見藤太という充実の配役で、おもしろく観た。  七之助は花道の出からジワがくる。市松模様に座る席を抜いた劇場でジワがくるのは格別のこと。猿之助はスッポンから迫り上がるが、人でもなく、狐でもなく、雄の匂いが濃厚に漂う。  ふたりは、あせらず、急がず、のどかな春の気分を漂わせる。進境著しい二人の顔合わせである。  女雛男雛で決まるところも、猿之助がすっと入って、さりげなくのびて、決まる。主従であることを踏まえ、見せ方をよく心得ている。  竹本が加わって、いくさ物語へと進む。重く始まり、やがて合戦の描写に入り込み、扇を口に決まる。芸容の大きさが感じられる。  猿弥の藤太も当代一と呼びたくなる。柔らかな鞠のような身体が舞台を明るくした。    源九郎狐の引っ込みは、沢潟屋らしい派手なやりかたで、髪をさばき、白地に宝珠の衣裳にぶっかえり狐六法を見せる。 万事、観客本意の猿之助らしい一幕となった。  第四部は、『与話情浮名横櫛』から「源氏店の場」。幸四郎の与三郎に児太郎のお富。彌十郎の蝙蝠安に片岡亀蔵が藤八を勤める。  幕開きから児太郎の成長ぶりに驚いた。  まだまだ若手と思っていたが、この数年、重い役に恵まれ、いつのまにか花形を代表する女形に成長していた。    鏡台に向かっての仕事が多く、神経をつかうと聞くが、おそらくは叮嚀で時間をかけた稽古の成果が実っている。地声も上手く使っている。  こうして、役者は大きくなっていくのだな、これが歌舞伎が生き延びてきた原動力なのだなと得心した。  この場の前半は、お富と藤八の芝居、与三郎と蝙蝠安の芝居で運んでいく。亀蔵が当て込まず着実な芝居。まじめだがちょいとスケベなお店者になりきっている。芝のぶのおよしも小股が切れ上がった女っぷりがよい。  収獲は煮染めたような着物をぞろりと来て、嫌がらせで世を渡る蝙蝠安を彌十郎が好演している。この役者は人の良さが身上と思ってきたが、濃厚な嫌味を漂わせる役を自在にこなしている。「そうはさせねえ。けえすんだ」の啖呵が小気味よい。内心の屈折や卑屈な追従もおもしろく観た。  さて、後半は、与三郎の男を見せる芝居だ。育ちの良さと近年の荒れた生活が両立していなければいけない。柔らかい物言いにも底に針がひそませてある。  幸四郎は、このあたりのほどがよく、ひとりで場をさらうよりは、作品としてのバランスをよく考えて、周囲にも芝居をさせている。  お富との気迫のこもったやりとりに続いて、中車の多左衛門が出てからの焼き餅ぶりに実がある。また、中車も、こうした大番頭の格が必要な役をなんなく勤めるだけの器量がある。人の浮き沈みを語っていぶし銀の滋味があふれた。  充実した一幕となった。  お富が藤八に「自分で」白粉を塗らせる件り。与三郎とお富が抱き合う代わりに手拭を投げて、たぐりよせる件り。  役者同士の距離を取りつつ、笑いへと作り替えていくあたりに、世話物ならではの妙がある。幸四郎の大きな戦略を感じた。

【劇評168】愛之助、壱太郎の『連獅子』。勘九郎と巳之助の『棒しばり』。二本の舞踊ものがたり。 5

 小津安二郎の映画だったろうか、それとも三島由紀夫の小説だったろうか。  歌舞伎座が下お見合いの場となる描写があったように思う。欧州のオペラ座も同様だろうけれど、国を代表する豪奢な劇場は、単に観劇の場ではなく社交の場であった。  また、消閑という役割もあって、私の父の世代は、あまり気に染まない幕は抜いて、食道でビールをゆっくり飲んでいた。  当時は、なんと不真面目なと思っていたが、今は、そんなのんびりした情景が懐かしく思い出される。  二月の千穐楽から、八月の初日まで。長らく閉場していた歌舞伎座がようやく開いた。  新型コロナウィルスが猛威を振るうなか、万全の体制をしいて、ともかく感染者がでないように考え抜かれている。  小劇場ではないから、舞台と観客席には充分な距離がある。  劇場側としては、観客と観客、役者と役者、役者と地方のあいだに安全な距離をとるために腐心したのがよくわかった。  四部制の幕間は、時間をとって徹底した消毒にあてられている。土産物屋や喫茶も、観客席から直接は行けない。ロビーや客席内での談笑も控えるように求められる。人交わりを最低限にするのが、観客の安全を守り、興行を継続させるための唯一の方法となっている。  狂言一本にこの観劇料は高いとの声も聞く。  私に製作費の積算はできないが、どう考えても採算が割れているのではないか。それでも、歌舞伎座は開ければならない使命感が劇場スタッフを支えていると思った。その思いに深く感謝する。    さて、この稿では、第一部『連獅子』と第二部『棒しばり』について書く。  第一部は、愛之助の親獅子、壱太郎の仔獅子による『連獅子』。実の親子によって踊られると曲の内容と歌舞伎の伝承が重なって、感動を呼ぶ演目とされている。  けれど、先輩と後輩が純粋に舞踊として踊るのは、存外、作品としての正体が見えてくる。情にからまないだけに、歌舞伎舞踊は技巧だけではなく、イメージの交換であるとわかる。千尋の谷を舞台にしたファンタジーを見ようとする意志が、役者と観客に共有されなければならないのだった。  愛之助には華のある役者の自信がある。壱太郎には、上をめざしていく壮大な野心がある。この対比を面白く見た。  宗論は、橋之助と歌之助。ベテランが務めるときの遊びはないが、まじめな問答がおかしみを誘った。  さて、第二部は『棒しばり』。『連獅子』が親子ものがたりが底流にあるとすれば、勘三郎、三津五郎以来、『棒しばり』には、舞踊の名手をめざすふたりのライバルものがたりが曲に宿っている。  古くは六代目菊五郎と七代目三津五郎。近年では十八代目勘三郎と十代目三津五郎。このふたりの『棒しばり』を折に触れて見てきたが、そのときどきのふたりの関係性も見えてきた。  もちろん酒好きの浅ましさ、滑稽さを描いた舞踊劇としてもすぐれている。だれが踊っても、手はくるだろうが、その先がむずかしいと十八代目も十代目もよく知っていた。  今回はふたりの長男同士が踊る。勘九郎と巳之助は、少し歳の差はある。けれども、十八代目中村勘三郎写しの愛嬌を漂わせる勘九郎に、懸命にくらいついていく巳之助に好感を持った。特にツレて舞う件りが心地よかった。酔いが自然に回っていく様子がよくわかった。  巳之助は二十代のはじめ、どこか翳りが残っていた。また、その翳りが新作歌舞伎によく似合っていたが、父を亡くしてから、ひとりの役者として、ひとりの舞踊家として立っていく覚悟が強く感じられるようになった。   今回の太郎冠者はその集大成であった。  劇場を取り巻く環境が厳戒態勢にもかかわらず、観客に忘我の心持ちに遊んで貰いたいと願っている。  もっとも、三津五郎が健在であれば、彼らが、先輩たちから忠告されたように「そんなバタバタやるんじゃないんだよ」と笑って、巳之助にカスをかすをくらわすのだろうと思う。「親が早世してしまったというのは、こうした厳しい忠言が聞けなくなるということなのだな」そう思うと踊りを観ながら、しんみりしている私がいた。(続く)

【劇評167】空白を超えて、衝撃的で、極めて思索的な野田秀樹作・演出『赤鬼』の初日を観た。

 厳戒態勢のなか『赤鬼』を観た。  舞台を取り巻く状況  東京芸術劇場には、四ヶ月ぶりに訪れたが、私は自分自身の車を運転して行った。地下三階の駐車場に止めて、エレベーターで地下一階に上がる。  開演三十分前に到着したが、シアターイーストを取り囲むようにロビーには観客が集まっている。  客席は自由席で、当日渡されたチケットの整理番号が呼ばれ、順番に入る。案内の方ばかりではなく、スタッフ全員がマスクの上にフェイスシールドをかぶっている。切符の半券は、観客が自分自身で切るように指示があり、さらにアルコール消毒のボトルが待っていた。  劇場に入ると、方形の舞台の四方を観客席が囲んでいる。舞台と客席のあいだには、透明で巨大な幕が垂れ下がっている。言葉が適切かどうかはわからないが、まるで水族館に入り、水槽を観ているような心地さえした。  客席も市松模様に配置されており、隣席とは距離があり、直接前の席はない。ロビーの椅子も離れて置かれていて、隣接した通路への扉も全開になっている。  考えられるあらゆる手段が講じられているのがよくわかった。東京芸術劇場のスタッフの皆さんの努力に感謝する。  野田秀樹作・演出の『赤鬼』には、さまざまなヴァージョンがある。  一九九六年にパルコ・スペースパート3で初演されたこの作品は、九八年にはバンコク、二○○三年にはロンドン、○五年にはソウルで上演された。○四年には、シアターコクーンで、ロンドン版、タイ版、日本版の連続上演も行われた。  それぞれに特徴があり、『異質であることの意味』(『野田秀樹の演劇』河出書房新社 二○一四年所収)に詳しく書いた。 タイ版に近い冒頭の演出  今回の上演は、あの女、トンビ、ミズカネ、赤鬼の四人とともに、十四人の村人によって演じられる。冒頭、鍋やバケツホースやザル、竹竿などの日常の品を使って、祝祭的な光景からはじまる。  一見するとタイ版の演出に近いのではないかと思われた。  ところが、劇が進むうちに、私がこれまで観てきた『赤鬼』とは、まったく違う作品になっていると気がついた。  私がこれまで、この作品を肌の色や国境や文化の違いによって、人間社会には、差別が否応もなく起こる。その真実を摘出した劇だと思ってきた。  さらにいえば、同一の人種、同じ村のなかにも差別がある。あの女とトンビは、赤鬼が登場する前から、村人から隔離されて生きてきたのだ。  勿論、周到に書かれた戯曲は、単に「差別が悪い」とのマニュフェストに終わるわけではない。  危機的な状況における人肉食の問題を内蔵させ、人と鬼の境界そのものを告発する。多数派と少数派の永遠に続く対立と抗争を露わにしてきた。  ところが、新型コロナウイルスの脅威が、私たちの日常を大きく狂わせた状況下では、この上演そのものがはらんでいる問題にまで射程が届いた。 ソシアルディスタンスは、演劇と鋭く対立する。  政治家やマスメディアが頻繁に口にするソシアルディスタンスという概念は、舞台芸術と鋭く対立する。  観客と俳優、俳優と俳優の距離の問題をあからさまにする。観客と俳優をいかに隔てる対策が行われても、俳優と俳優の問題は残る。「ソシアルディスタンス」を徹底すれば、俳優がひとりだけ登場する『審判』のような作品しか上演できないことになる。  この『赤鬼』の主題は、コミュニケーションの不可能性にある。  どれほど、あるいは他の言語を理解しても、人間と人間はわかりあえない。 そのために、人間は激するまでに言葉を尽くし、お互いの距離を縮め、肌を接触する。  それは、人間がミュニケーションの不可能性を知りつつも、孤独に耐えられない生き物だからだ。  今回の上演では、この距離の問題が強く浮かび上がった。  ステイホームと政治家はいう。けれども、家族との接触を遮断することは、できない。発症して、症状が重くなり、ホテルへの隔離、入院の措置がとられて、はじめて本人と家族は切り離される。  『赤鬼』のあの女、トンビ、ミズカネ、赤鬼の四人は、ひとつ小舟に乗って大海原に出ることで、疑似家族となった。新たな共同体が生まれた。  海の向こうでは、どんなに残酷な村人も、彼らを引き離すことはできない。 演劇を作る共同体について  また、これは舞台表現を志した演劇人全体にもいえることではないか。  舞台公演を行う。そう決意して船に乗ったからには、他のだれも、演出家と俳優を、キャストとスタッフを、彼らが作った共同体を引き離すことはできない。  野田秀樹が今回の『赤鬼』で行ったのは、演劇というジャンルの特異性であり、独自性の主張である。  いかなる理由があろうとも、私たちは、稽古場と舞台での共同作業にすべてを捧げて、貫いていく。強い覚悟が感じられた。  日比野克彦の美術は、きわめてシンプルである。もし、舞台と客席を隔てる透明な皮膜を大道具として考えるならば、その試みは、距離が明快となる効果をもたらした。  また、舞台が白熱化するとともに、こうした皮膜は見えなくなり、舞台と客席が一体となることも明らかにした。  照明の服部基は、今、私たちがいる世界が、薄暗い洞窟であると明らかにしている。その壁には、私たちの幻想が投影され、幻影は現れては消える。  音楽の原摩利彦と音響の藤本純子は、重低音を充分にきかせて、根源的な不安を拭い去ることのできない現在を強く感じさせた。 舞台に熱を与えるキャスト  私が観た初日は、Aチームによって演じられた。  あの女を演じた夏子は、まっすぐな眼差しによって際立っている。あの女の精神は、いかなる邪念にも染まることなく、永遠に向かって手を差し伸べていると語っていた。  ミズカネの河内大和は、これまでひねくれたインテリとして描かれてきた役を一新した。自分の都合を追求する人間の浅ましい本質を描いて、逃げようとしていない。  トンビの木山廉彬は、狂言回しに徹して、強い自己主張を控えている。劇中では重要な役割を果たしながら、傍観者でもあって過不足ない。  赤鬼の森田真和もこれまでの赤鬼とは違っている。日比野の美術は、ウイルスを思わせる触手を与えているが、そのフラットな演技もあって、赤鬼=外国人ではなく、赤鬼は異物なのだと語っていた。  そして、この舞台に限りない熱を与えていた村人たち、池田遼、織田圭祐、金子岳憲、佐々木富貴子、末冨真由、扇田拓也、八条院蔵人、花島令、広澤草、深井順子、藤井咲有里、間瀬奈都美、三嶋健太に敬意を感じた。  演劇界は長い空白にいた。その空白を超えて、こうした衝撃的で、なお極めて思索的な秀作が生まれたことを喜んでいる。