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2015年2月21日土曜日

【劇評8】生きることのおかしさ 『三人姉妹』(アントン・チェーホフ作 ケラリーノ・サンドロヴィチ上演台本・演出)

 【現代演劇劇評】二〇一五年二月 シアターコクーン

生きることに懸命な人間を観た。
チェーホフの『三人姉妹』を、ケラリーノ・サンドロヴィチは古典としてひたすら礼賛するのではない。上演台本を作成し、戯曲の言葉をたどりながら、登場人物はどのように舞台上にいるのかを丹念に読み解いている。
オーリガ(余貴美子)は、婚期をのがした教師の枠に収まらない。ふたりの魅力的な妹を愛情をこめて見守り、ときにいらだちをかくさない人間として描いている。
マーシャ(宮沢りえ)も倦怠感あふれる美女ではない。もう一度生の感触を取り戻そうと、ベルシーニン(堤真一)との恋愛に燃え上がるひたむきさが前面に出る。
イリーナ(蒼井優)は、没落しかけた家のお嬢さんではない。自分が何も実現できないことに煩悶する女性として生き急いでいる。
求婚してくるトゥーゼンバフ(近藤公園)とソリョーヌイ(今井朋彦)を突き放してみるしたたかささえ見せる。
ナターシャ(神野三鈴)は育ちの悪い悪趣味な女ではない。信念を持ってこの沈滞した家を変えていこうとする野性に充ち満ちている。
女性ばかりではない。チェプトィトキン(段田安則)も人生に疲れた老軍医ではなく、過去の思い出にしがみつき、ときに狂気をほとばしらせるエネルギーを隠している。
クルイギン(山崎一)は、退屈で気取った教師ではない。自らが俗物であることに絶えかねている煩悶がほの見える。そして、まぐれもなくマーシャを愛し抜いているのだ。
堤真一のベルシーニンは哲学を繰り返すが、火事の場面では、だれも聞いておらず、自らの言葉が浮遊していく徒労感を描き出している。
新しい登場人物像が提示されたのは、台詞をうまくしゃべることに専心すのではなく、そのとき人間の身体はどうあるのかを徹底して追求したからだ。ときに人間は言葉とはうらはらに、奇矯な行動をみせたりもする。イリーナが火事の場面で洗面器の水を自ら顔に浴びせかけたり、マーシャがベルシーニンとの別れに我をうしなって足にしがみついたりもする。こうした唐突な行動を怖れず見せることで、とりすました「チェーホフの名作」が私たちのものとなった。人間の懸命な姿はときにおかしみを誘う。これほど笑いと共感をもって受け入れられた『三人姉妹』を私は知らない。演出の緻密さとそれを受けたキャストの自由なありようを観ていただきたい。三月一日まで。五日より大阪公演がある。http://www.siscompany.com/shimai/gai.htm