長谷部浩ホームページ

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2015年2月16日月曜日

【エッセイ1】野田秀樹の軌跡1

今回『野田秀樹の演劇』(河出書房新社)を刊行するにあたって、これまでに野田秀樹について書いた原稿を改めて読み直した。
なかでもNODAMAPの依頼を受けて『パイパー』のパンフレットに書いた「野田秀樹の軌跡」は、長文であり、収録を最後までためらった。
夢の遊眠社時代の駒場小劇場から、野田が芸術監督を務める東京芸術劇場までを思い出している。
内容的には、野田秀樹と私とのかかわりを、劇場を縦軸としてエッセイとして綴った原稿である。
評論集に収録するには、私自身の心情をあけすけに語っている。最終的には収録をあきらめた。

パンフレットの性格上、あとから入手するのはむずかしくなるので、3回に分けて、ここにアップロードしておこうと思う。
どうぞ楽しんでお読み下さい。


思えば長い旅を続けてきた。
一九七六年、夢の遊眠社結成から、現在まで。三十五年あまりの歳月が過ぎ去っている。
演劇人にとって、劇場は仮寝の宿である。仕込みをし、舞台稽古を行い、公演の初日が開き、千龝楽を終え、バラしを行って、その場から去っていく。ひとところにとどまることはない。

自由でダイナミックな駒場小劇場

七六年五月の旗揚げ公演は、『咲かぬ咲かんの桜吹雪は咲き行くほどに咲き立ちて明け暮れないの物語』だった。
駒場小劇場の公演である。小劇場の舞台幅は、およそ十二メートルを超えていただろうか。学生食堂を改造したこの劇場は、八メートル近い高さを持ち、いわゆる小劇場の規模を超えていた。照明機材を吊るために舞台の上手下手に鉄骨が組んであったが、舞台も客席も固定されておらず、作品によって自由に舞台空間を作り変えることができた。
東京大学駒場キャンパスの施設であったために、大学に在籍する学生による申請が必要だったが、長期にわたって借りることが出来、本番を行う舞台で、稽古を行える利点があった。もちろん野田秀樹率いる夢の遊眠社の独占ではなく、今は亡き如月小春が主宰する劇団綺畸なども後年、公演を行うことになる。
当時、六本木にあった自由劇場の狭隘な空間と比較してみても、駒場小劇場がいかに恵まれた空間であったことか。この特異な空間がなければ、ダイナミックな野田秀樹の空間造形は、生まれなかったのではないかと思う。
舞台空間だけではない。立地もまた素晴らしかった。
駒場東大前駅からキャンパスを進んでいくと、鬱蒼たる森に入る。学生寮が隣接していたが、都会の中にひっそりとした自然が残り、開演前に散歩していると、大きながまがえるに出くわすような環境であった。今回、久しぶりにそのあたりを訪ねてみたが、もはや跡形もない。浅茅が宿は、再び訪ねようとしても、辿りつけないものなのだろう。
私がはじめて夢の遊眠社の舞台を観たのは、一九八○年の三月に行われた『二万七千光年の旅』からである。
それに先立つ二月、ある女性誌の取材で、野田秀樹を駒場小劇場に訪ねた。稽古を観て、まったく新しい演技体が誕生したことに驚いた。いっときもひとところにとどまらずに、跳躍と疾走を繰り返していく。野田戯曲には詩的な台詞が散りばめられているが、そのリリカルな言葉を身体が解説するのではなく、センチメンタリズムの罠にはまることを怖れるかのように、身体は走り続けていたのである。
稽古が一段落して、インタビューとなった。キャンパスを出て、野田がいきつけにしていたぐりむ館という喫茶店に出かけた。この公演についての取材であったが、野田が繰り返し、自分が天才であると主張していたのを懐かしく思い出す。
私は稽古を観ただけで、まだ舞台に接してはいなかったから、安易に野田の主張に同意する訳にはいかなかったが、素顔であってもカリスマ特有のオーラを発していた。かつて無名時代の蜷川幸雄は、自宅の表札に「天才蜷川」と掲げていたというが、特異な存在であることを露悪的なまでに主張し、自らを鼓舞する時期だったのかもしれないと今になって思い返す。
それから一九八二年十月の第十九回公演まで、六年半の間、この劇場に通い続けた。『赤穂浪士』『少年狩り』『走れメルス』『野獣降臨』『ゼンダ城の虜―苔むす僕らが嬰児の夜』と初期の代表作は、すべてこの駒場小劇場で上演され、作品のレベルは着実に上がり、天才誕生の名声は、つとに高く、もはや自ら主張する必要もなくなっていった。
どの公演だったか忘れてしまったが、稽古を観るために駒場を訪れた際、当時の制作者がひとりで公演ポスターを貼っていた。時間があったので、手伝って構内にポスターを貼って回ったこともあった。
野田とはそのインタビュー以来、格別親しく話す機会はなかったけれども、彼が生み出す舞台に熱狂していたのか、サポーターのつもりでいたのだろうと思う。私はまだ、演劇評論を書き出してはいなかった。
大きな転機となったのは、八一年の『ゼンダ城の虜』の赤頭巾役に、当時人気絶頂であったアイドルグループ、キャンディーズの伊藤蘭が客演した舞台だろう。
七五年に沢田研二が唐十郎作、蜷川幸雄演出の『唐版・滝の白糸』に出演したことがあったが、当時、テレビの人気者が小劇場に出演するのは一般的ではなかった。伊藤蘭の華が、駒場小劇場にこぼれた。すでに翌年の紀伊國屋ホールでの『怪盗乱魔』への出演も決まっていたのだろうと思う。

劇場とは、人と人とが交差して別れていく辻
夢の遊眠社は、揺籃の時代を終え、学生劇団からの脱皮を模索していた。八二年以降、紀伊國屋ホールと本多劇場を拠点として、公演を繰り返していく時代へと移る。
この時期の傑作はなんといっても、八三年、本多劇場で初演された『小指の思い出』だろう。再演の舞台ではあるが、ソニーミュージックエンターテインメントからDVDが発売されているので、今でも追体験できる。
下北沢にある本多劇場は、三八六席の客席を持ち、八二年に開場したばかりであった。真新しい劇場空間が、渋谷の場外馬券場から、中世のニュールンベルグの冬へと転位していく。少年たちが寝ていたはずのふとんが、いつのまにか空を飛ぶ凧へと変わっていく。鮮やかな演出に見惚れた。
野田は八三年九月二十二日の日記にこう記している。十五日の初日から八日目。
「ゼンダ城と優劣つけ難し という一般的な声 並びに、観客との一帯感の復活のキザシ 駒場の劇場から離れて、漸く、一帯感のトレル空間を持つことができそうだ。それにしても、一月の紀伊國屋公演は、そこんところたいへんだ」(『定本・野田秀樹と夢の遊眠社』一九九三年 河出書房新社 一五六頁)
駒場小劇場は、異界にある劇場であった。観客も劇場に入る前に、参入の儀式に参加する空気があった。
それに対して、紀伊國屋ホールも本多劇場も、夢の遊眠社が終われば、新劇などの公演が待っている街中の小屋である。野田が、現実との折り合いを模索していたとわかる。
新宿にしろ下北沢にしろ、人が集まる盛り場には独特の魅力がある。人間と人間が交差して別れていく辻とは、劇場のことではなかったか。当時の作風に見合ったキャパシティの劇場で観る夢の遊眠社の舞台は、至福の瞬間をかいま見せてくれた。
『小指の思い出』で、野田は女装して粕羽聖子役を演じた。その直後だったか、池袋の西武百貨店内で、岸田今日子との対談が行われた。スタジオ200の主催だったと思う。喫茶店のようなスペースに野田は、粕羽聖子の役衣裳で現れた。女装する怪人であった。私はどぎもを抜かれた。演じることの毒が、野田という人間にどのように作用しているのか。考え込まされたのをおぼえている。