長谷部浩ホームページ

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2020年4月14日火曜日

【劇評161】白鸚の芸境

まさか「桜を見る会」の諷刺なのか?
 見どころにあふれるミドリの公演で、ゆったりと観た。

 朝いちばんの朝幕は、『醍醐の花見』(中内蝶二作 今井豊茂台本)。幕外のやりとりが終わると幕を振り落とす。
 季節は違えど、桜の花は、歌舞伎の美の原点にある。

 梅玉の秀吉、福助の淀君、勘九郞の三成、七之助の北の方、芝翫の智仁親王、魁春の北政所が、盛大に花見を愉しむおおらかなな一幕。昨今世情を騒がせている権力者の「桜をみる会」を、まさか下敷きにはしていないだろうと思うが、諷刺ならばまた、見方が変わってくる。中村の姓を名乗る役者が集まって、新年を寿ぐ。

 凍える悲しみ
 一転して、雪のなかに凍えるような悲しみがこもる『奥州安達原 袖萩祭文』。
 なんといっても雀右衛門の袖萩が、三味線を弾きながら、こころのうちを語る件りが切々と胸に迫る。

 父直方(東蔵)とその妻浜夕(笑三郎)とのやりとりも緊迫感がある。東蔵は、娘に思いがけずにあえた嬉しさをひたすらに隠す思い入れがすぐれている。芝翫の貞任、勘九郎の宗任と立役が大きく、単に勘当された親子の話に終わらない。勘九郎の男っぷりがよく、懐剣を持って迫る件りに生彩がある。葵太夫の浄瑠璃、寿治郎の三味線。
 
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大曲の舞踊劇に軽み 
 正月だからか。吉右衛門は時代物の大役ではなく、舞踊劇を選んだ。『新歌舞伎十八番の内 素襖落』。
 大盃を重ねて、頂き物の素襖を落とす。大名(又五郎)、鈍太郎(種之助)になぶられる他愛のない筋だが、吉右衛門が出て、雀右衛門が姫御寮につきあうと、がぜん舞台が立派になる。
 吉右衛門はもとより巧い役者だが、技巧本意に見えず、軽みとして観客に感じられるところが見事。
 眼目の件り。那須の与一の合戦を軍物語として語るが、重くもたれない。 弓を構え、矢をいるときの身体に見惚れた。
 又五郎の受けの芝居が、吉右衛門を支えている。

白鸚の芸境
 さて、白鸚の『河内山』だが、また一歩、いや二歩、芸境が進んだ。
 今回は、上州屋で娘を救い出す仕事を請け負う場を欠く。「広間」「書院」「玄関先」だけを通すと、河内山宗俊を俗にまみれた悪党ではなく、肚の座った大悪党とするやり方が成立する。

 従って、「玄関先」で北村大膳(錦吾)を馬鹿めとののしる爽快さは観客サービスとなり、「書院」での対決が眼目になる。大名の松江出雲守(芝翫)と御数寄屋坊主。立場は違えど、官僚同士の肚のさぐりあい、意地のはりあいが芝居になっている。

 白鸚は、観客に噛んで含めるようなやり方をしない。説明調になるのを徹底してさけて、あくまで内輪に、肚の芝居に徹した。
 観客と着実に気持ちがかよいあっている。そんな安心感が見て取れた。

 白鸚の芝居を受ける芝翫も大名の風格がある。酒乱ではなく、色好みな大名の色気まで漂う。
 家老の小左衛門に歌六。宮崎数馬は高麗蔵。二十六日まで。