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2020年4月14日火曜日

【劇評159】花組芝居の円熟『義経千本桜』

十九八七年の設立というから驚く。

 花組芝居が『義経千本桜』の通しを上演すると聞いて、急に観たくなった。

 序幕の「仙道御所」から始めて、知盛、権太、忠信のくだりをすべて網羅している。「北嵯峨」の件りまで含んでいる。これで休憩を含めて三時間以内に収めている。
 かといって駆け足だとは思わない。むしろ、脚本・演出の加納幸和が差し出した「歌舞伎の愉しさ」をどれだけ理解出来るか。知的なパズルを観に行ったような心持ちがした。

 短くはしている。してはいるけれども、原文を生半可に現代語にしたりはしない。竹田出雲、三好松洛、並木千柳の台詞を尊重する。

 そのため、歌舞伎を全く初めて見る観客には(イヤホンガイドがない分だけ)むずかしいかもしれない。
 けれど、ここには、歌舞伎の本質を愛するまっとうな精神がある。
 そして、歌舞伎を愉しんでほしいという強い願いがある。
 姿勢が正しいので、観客も背筋を正して観る。ドラマに入り込み、チャリでは笑う。
 素晴らしい仕事を長年続けてきたものだと頭が下がる。
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 『義経千本桜』は、源義経が主人公の芝居ではないとよく言われる。
 けれども、花組芝居による『義経千本桜』は、序の「仙洞御所」を出して、核心となる鼓の皮の表裏が兄頼朝、弟義経であると強調する。
 従って、この通し狂言の底流には、兄に疎まれた弟の悲しみがあると明らかになる。
 そう思いながら見ると、知盛、権太、忠信、それぞれの物語は、義経が見た幻であるように見えてくる。メタシアターのしつらえである。

 古川雅之の美術は、全幕通して使われる。
 見捨てられた廃屋のようなしつらえである。舞踊の大曲『将門』を思わせる。自分自身の物語を脳内に作りだし、それにすがりつかなければ、人間は生きられない。
 義経もまた、同様の人間だったと語っているかのようだ。

加納幸和は、「渡海屋・大物浦」のお柳実は典侍の局と「鮨屋」のお里の二役。どちらも円熟の域にある。
 芸境が上がったからといって、悪ふざけも止めていないのがまさしく歌舞伎である。