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2015年3月22日日曜日

【劇評13】若手花形が南座を沸かす

 【歌舞伎劇評】平成二十七年三月 南座 午前の部 『流星』が示す本格

正月の浅草から弱冠メンバーを変更しつつ、博多座をめぐって、南座で花形歌舞伎の幕が開いた。いずれも大作揃いだが、真摯な姿勢で取組み、清新な舞台となった。また、昼の部、夜の部ではなく、午前十一時開演の午前の部と、午後三時開演の午後の部の編成とした。全体の上演時間を短く抑え、料金も一等席で一万円とした興行上の工夫もあって、私が観た日は、いずれも満員だった。若手の芸を楽しむ層には、こうした上演形態がふわさしいのだろう。
まずは『矢の根』。歌舞伎十八番の荒事である。歌昇の五郎時致に胆力があり、荒事役者としての可能性を示した。きっぱりとして稚気にあふれ、舞台を踏み抜くかと思われるほどの覚悟に満ちている。「ツラネ」に感情をいれることなく、「悪態」も力強い。荒事の条件を守りつつ、身体のキレで見せていく。隼人の文太夫。蝶十郎の馬士。種之助の十郎祐成に柔らかみ、幻のような存在に徹している。
続いて、これもまた歌舞伎十八番の『鳴神』。松也の鳴神上人、米吉の雲の絶間姫。
松也は元々色気のある役者である。姫の色香に迷うこの高僧に似合うかに思われるが、実はそう簡単にはいかない。出から上人の威厳を示すことができなければ、荘厳な行者が堕ちていく変わり目が見えない。高僧の潔癖さが必要である。
米吉もやはり出から色気にあふれすぎている。夫を亡くした姫の哀れさ、苦しみがまずあっての雲の絶間姫だろう。語りも工夫はよくわかるが、心の内の変化がついていっていないので、平坦になっている。破戒と墜落。勅定と計略。古劇の風格を目指さなければならない。ただし、後半、雲の絶間姫が注連縄を切る件り、また上人が憤怒の相となって六法を踏んで引っ込む件りは、様式があるだけに一応の成果を示した 
切りは『流星』。亡き十代目得意の演目だが、巳之助が自分なりに本格を目指して、懸命に稽古したのがよくわかる。
隼人の牽牛、右近の織姫がせりあがると、美男美女ぶりに客席からジワがきた。「ご注進」の声も高らかに花道から巳之助の流星が登場する。本舞台にかかって軸に狂いなくきっぱり踊る。〽聞けばこの夏流行の」から、雷の夫婦と老いた姑、幼い子供、この四役を踊り分けるが、単に百面相に終わるのではなく、身体全体をつかって変わっているのがよい。総じて趣向に流れず、それぞれの性根を掴んで踊ろうとする姿勢が明確だった。巳之助が坂東流の大曲に、次々と挑んでいくのが楽しみになった。二十七日まで。