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2020年2月22日土曜日

【劇評152】梅枝の十二月。

歌舞伎劇評 令和元年十一月 歌舞伎座


歌舞伎にとって、むずかしい局面が続いている。

 歌舞伎座は、基本的に「ミドリ」の興行を続けている。つまり、通常、昼の部と夜の部にそれぞれ三本から四本の狂言を並べている。当然のことながら、すべてが最高水準の舞台であるはずもない。

 こうした現実は、急に起こったわけではない。「ミドリ」の宿命かも知れない。けれども、以前、新聞劇評を担当していたとき、すべての演目について触れなければいけないのは、正直言って苦痛だった。

 このことは、はっきり書いていた方がよいと思う。恐らく、観客の少なくない方が、同意されると思う。

 私の父の世代は、意欲がそそられない幕があると、食堂で麦酒を飲んでいたりした。この頃は、万事がせせこましくなっているのか、こうした自由人が、観客に見当たらなくなっているのも残念である。

十二月の歌舞伎座では、まず、梅枝の奮闘を特筆したい。

 昼の部は、『阿古屋』。梅枝にとって二度目の挑戦になるが、琴、三味線、胡弓、いずれの演奏も安定している。 平成三〇年の十二月の初役とは、別の境地をめざしている。
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 ご承知のように、重忠(彦三郎)は、詮議のために、阿古屋に演奏を求めている。それぞれの楽器のあいだにある阿古屋の語りが重要なのは勿論だが、まず、演奏の充実が必須である。梅枝は、難曲に向かっているのではない。重忠へ答えを差し出している。さらに、景清に対して、思いを通わせている。

 「景清の行方は」と語るときに、遠い場所へイメージが飛んでいる。三重に身を横たえた姿は、まるで瀕死の孔雀のようでもある。厚い懐紙の捌きも重くならず、小道具ではなく、たしなみが通っている。

 景清との別れが、格子先の一瞥、はかない逢瀬だとわかって、胡弓の演奏に入るとき、なお切なさが通う。音程がもとより不安定な楽器である。そのために岩永(九團次)のチャリがあるが、その助けがいらないほどである。技巧を見せるのではない。

 音楽は、だれのためにあるのか。
 もとより詮議のためではない。
 
 他人を慰めるためにあるのか。
 それもあろう。

 梅枝の阿古屋は、今、現在の境遇を、深い井戸としている。分かりつつ、その深いところへ、没入していく心地がした。
 一歩進んだ境地にあるとよくわかった。

なお、梅枝がはじめて阿古屋を勤めた公演についての劇評は以下でお読み頂けます。
https://hasebetheatercritic.blogspot.com/2018/12/blog-post.html