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2018年1月22日月曜日

【劇評100】無数の風車が、人間の生の営みを語る。『近松心中物語』

 現代演劇劇評 平成三十年一月 新国立劇場中劇場

『近松心中物語』は、私にとって忘れがたい作品である。蜷川幸雄の演出によって、一千回を越える上演が繰り返された。七九年の初演の舞台を帝国劇場で観たときの衝撃は、今も私のなかに深く刻まれている。
一九九九年ごろ、『演出術』をまとめるために蜷川の稽古場へ通った。『近松心中物語』についても詳しく話を聞いたが、秋元松代の戯曲のなかでも、もっともよく知られる本作について蜷川の言葉は、意外に冷ややかであった。第一稿の一幕を取材先のモスクワではじめて読んだときの感想である。
「カーテンを開けて窓越しに猛烈な吹雪を見ながら台本を読んだんですけれども、正直いって、「まいったなあ」と思いました。今まで本当のことをしゃべっていませんけど、「薄っぺらい戯曲だなあ、演出できないなあ」と思いました。まだ一幕だけですけれども、奥行のない平板な戯曲に思えたんです」
この平板な戯曲を立体的にするために蜷川は、演出術の限りを尽くした。その詳細については、『演出術』(ちくま文庫)にあたっていただければうれしい。視覚的、音楽的な効果については今更語るまでもないが、蜷川が演出によってこの戯曲に与えた最大の往昔は、廓に生きる名も無い人々のたくましくも悲しい生き方を描き出したところにある。鳥の視点から廓を眺め、虫の視点から人間をみつめたのである。
今回、いのうえひでのりが『近松心中物語』を演出すると聞いて、なるほどなと思った。ダイナミックなスペクタクルを演出する力量、辺境や底辺に生きる人間に対するこだわりは、蜷川と共通した面がある。なるほど適切な起用だと膝を打った。
その期待は裏切られなかった。堤真一の忠兵衛、宮沢りえの梅川、池田成志の与兵衛、小池栄子のお亀。いずれも瑞々しい人間像を描き出している。かつて、蜷川版の『近松心中物語』を演じてきた俳優は、世代によっては歌舞伎の『封印切』や『新口村』への意識が強かった。大なり小なり歌舞伎への尊敬と対抗心があった。今回の上演では、ありふれた人間のありふれたメロドラマと割り切って演出されており、心中する人々を崇高なものとして美化するそぶりがない。特に与兵衛、お亀はコミックのように誇張された表情、身振りに徹していて、人間の愚かさ、哀しさを直接的に描いている。
いのうえのステージングは、装置をダイナミックに動かし、無数の風車を自在に回して、人間の生の営みを象徴的に表している。この風車のひとつひとつが、はかない人生と思うと胸がこみあげてきた。
演技については歌舞伎へのコンプレックスとは無縁だが、演出手法にいては浪布やぶっかえりなどを巧みに取り入れている。蜷川の精神は受け継ぐが、コピーには終わらない堂々たる舞台となった。型の継承に終わらぬ演出は蜷川が喜ぶだろうと私は思う。二月十八日まで。