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2019年9月2日月曜日

【劇評146】尾上右近の弁天小僧。華々しい進境

歌舞伎劇評 令和元年九月 国立劇場小劇場

尾上右近がはじめた「研の会」も、早くも五回目。自主公演といえば勉強会との位置付けが一般的だろうが、今回は本公演への進出をはっきり意識した座組、狂言立てで際立っている。
まずは音羽屋の歴史を踏まえ、もっとも世に知られた『弁天娘女男白浪』の浜松屋と稲瀬川を出す。右近は、どちらかといえば女方を中心とした役を勤めてきたが、この弁天小僧菊之助が、実は男であったと見破られる「見顕し」では、男の匂いが強く出た。
女方が男に急に変貌する倒錯的なおもしろさではない。武家の娘の衣装に身を押さえつけていた若い男の色気がまっすぐに出て、おもしろく見た。
この方向性は、尾上右近の将来を占う上で大きな意味を持つ。確かに国崩しのような立役は柄からいっても遠いだろうが、鍛え抜かれた踊りの身体を生かして、清新な立役としての道を選んでいくのだろうか。今夜、観た限りでは、「毛谷村」の六助や「実盛物語」の実盛あたりも射程に入ってくる。
今回は菊五郎の指導だが、必ずしも音羽屋の藝にこだわることはない。弁天小僧は勿論、右近の生涯の目標となるだろう。ただ、白塗りの二枚目の立役まで、自在に視野を広げていく方が可能性が生まれてくる。
今回、安定した舞台となったのは、もちろんつきあってくれた先輩達の力によるものが大きい。相手役南郷力丸の彦三郎(初役とは驚きだ)、浜松屋では團蔵の日本駄右衛門、橘太郎の番頭、市蔵の浜松屋幸兵衛を得たために、舞台全体に破綻がなく、弁天小僧をたっぷりと演じることが出来た。
欲をいえば、悪の匂いだろうと思う。黙阿弥の白浪物は、なにより江戸の小悪党であることが大事だが、右近は藝質もあって、悪に徹することができにくい。世間をなめているアウトローの感触が浮き立てば、より蠱惑的な弁天小僧となるだろう。
休憩のあとは文楽座が出演した『酔奴』。初代猿翁の演目だが、当代猿之助がまだ手がけていない踊りを上演できたのも、右近の人徳と恵まれた環境ゆえだろう。アドバンテージを生かして、藝を先んじれば、必ず道が開ける。
そう確信させたのは、なにより踊りの確かさである。子役として天禀をうたわれた岡村研祐には、それだけに、どうしても器用さがつきまとってきた。名子役につきまとう評価である。もちろん、器用が悪いわけではない。ただ、上手いというのは、必ずしも人を感動させない。このあたりが右近につきまとう課題としてあったのも事実だろう。
けれども、今回の『酔奴』は、一見、派手に見える竹馬の件りが、突出しない。この踊りの芝居ばかりがよく見えてくる。
仕方噺の件りも、物語が筋を追うことに終始せず、「噺」であること「語り」であることの芯がしっかりとしていた。
前半が丹念に作り込んでいたばかりではない。一曲、全体に技藝が充実し、踊ることの喜び、語ることの幸福が伝わってきた。三人上戸も、泣き、怒り、笑いがくっきりしている。顔の表情で、違いを際立たせるのではなく、まさしく身体が泣き、怒り、笑って芝居をしている。
また、じれる女房の風情がまたいい。ここでは女方の修業が生きている。

弁天小僧とめずらしい踊りの二題。右近の着実な進境を感じさせた。
京都、東京を巡演。私は大千穐楽を見た。