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2019年5月12日日曜日

【劇評138】菊之助、歌舞伎座で『京鹿子娘道成寺』を披く。

歌舞伎劇評 令和元年五月 歌舞伎座夜の部1

未来を信じるといえばたやすい。が、これほど困難な時代を生きていれば、あらゆる芸術ジャンルが果たして伝統と革新を継続的になしうるのかが疑われるのは致し方ないだろうと思う。
今月の歌舞伎座、團菊祭五月大歌舞伎の眼目は、尾上菊之助による『京鹿子娘道成寺』に尽きるだろう。菊之助自身がひとりで『道成寺』を踊ったのは、平成十一年の一月、浅草公会堂である。坂東玉三郎の薫陶を受けて『京鹿子二人娘道成寺』を踊り、回を重ねるうちに重要な件りを任されるようになっていた。菊之助にとって久しぶりの『京鹿子娘道成寺』となったのは、平成二十六年三月の京都南座。今回、歌舞伎座の出し物となった。
歌舞伎座にとって『京鹿子娘道成寺』は、特別な意味を持つ。戦後、ひとりで踊ったのは、年代順に数えると、六代目歌右衛門、七代目梅幸、二代目時蔵、二代目橋蔵、十七代目勘三郎、五代目富十郎、七代目菊五郎、七代目芝翫、五代目玉三郎、五代目時蔵、四代目雀右衛門、九代目福助、十八代目勘三郎、十代目三津五郎に限られる。わずか十四名。独自の公演で出した橋蔵を除けば、十三名となる。しかも父七代目菊五郎でさえ、大名跡襲名の折りに踊ったのであり、この演目が興業会社の松竹にとっても、歌舞伎界にとっても、重要なメルクマールとなっているのがわかる。おおげさな言い方ではなく、気力体力に充分な自信がなければ、松竹や先輩方が許しても、出し物として出せるはずもない。もはや、ひとりでは踊りきれぬと思えば、若手を起用して『二人道成寺』や『男女道成寺』とする他はない。
さて、菊之助の道成寺はどうだったか。
平成二十六年三月の京都南座でも、すでに技術的な不安はなかった。当然のことながら振りは身体化されており、ぎくしゃくする箇所はない。長唄にのって花の季節を美しい娘として踊るそれに尽きて満足な舞台であった。菊之助自身は、みずからの玲瓏な美貌に頼らず、巧まざる色気を醸し出したいと願っているように見えた。
今回はさらに、その境地が進んでいる。この巧まざる色気さえもさして意識されない。「道行」の持つ、長い道のりをひとり行く女の感覚。「金冠」での格調をお能へのコンプレックスではなく、歌舞伎の品位として見せていく姿勢。「云わず語らぬ」では町娘に一転するが、袖使いのあでやかさを強く打ち出す。「鞠唄」でも、幻の鞠を浮かび上がらせることに腐心せず、ただ、鞠とたわむれる女を廓尽くしの詞章とともに、自然に踊っていく。流れる川のごとしであった。
これまでの舞台のなかで、今回目を見張ったのは「花笠踊り」の件りである。短い時間に三段の振り出し笠の扱いを見せるが、これもひたすら正確にと心がけているように見えた前回を軽々と越えている。笠と傘は、空間を切りとって、異界が現れる意味を持つが、ここで菊之助は華やかな風俗にこめられた民族の記憶を甦らせている。藝の力が一段とあがったから、華やかな件りの背景にある精霊のうごきまでもが見えてくる。
さらに、〽恋の手習」のくどきである。手拭の扱いもまた、意味の伝達はあくまで長唄にまかせて、女がひとりじぶんのこころのうちをのぞきこむときの密やかな時が浮かび上がってきた。〽ふっつり悋気」で長唄は、女の悋気を語るが、憎悪でもなければ、未練でもなく、あくまで他愛のない悋気に見える。また「のしほ」はこの人ならではのもので、可憐さを出すためにごく内輪に踊っている。
〽恨み恨みてかこち泣き」では、一転して、伝説上の清姫の執念をみせる。ここでもきっちり鐘に対する執着をただならぬものとしているので、鈴太鼓から鐘入りまでの烈しい動きとつながっている。
ほぼ完成に近づいた菊之助の課題は、鞨鼓の踊りに尽きるだろう。私が観た初日は「山づくし」の前半に迷いがあった。正しく間をはずさない想念から離れて、みずから躍動する舞踊を作りだし、導いていく覚悟が必要だろう。後半、バチ先がきれいな弧を描いてふっきれたように思う。
〽ただ頼め」の手踊りは菊之助が得意とするところで、鞨鼓からさらに進展して、からだそのものが拍子となって、舞台全体を支配していく。多くの日本舞踊の流派には、この件りはないから、歌舞伎舞踊の役者として、自分なりの解釈を打ち出す場と観るべきなのだろうと思う。菊之助は、「云わず語らぬ」と同様ではあるが、やや年かさで、まだ若さの俠(キャン)を貫く江戸娘の意気地がほの見えて楽しい。「祈り北山」で面差しを深くするとさらに祈りの要素が深くなるだろうと思う。
鐘入りから蛇体となって鐘にあがってきまるまでは、すっとして凛々しい。清姫の僧安珍に対する執念はあくまで下地であって、主題ではない。なんとも江戸の粋を貫いた『京鹿子娘道成寺』であり、音羽屋の藝の継承者としての姿勢を鮮明にした舞台であった。