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2016年9月4日日曜日

【劇評62】吉右衛門、玉三郎の『吉野川』。観客と役者が読みを競う一幕。

 歌舞伎劇評 平成二十八年九月 歌舞伎座夜の部

めったに出ない演目であり、吉右衛門、玉三郎、染五郎、菊之助と現在考えられる理想の顔ぶれで、『妹背山婦女庭訓』の「吉野川」が上演された。両花道が静かに大判事と定高の出を待っている。本舞台中央には早瀬の吉野川。上手には背山、下手には妹山。それぞれの屋台がしつらえられており、また、竹本の床台も葵太夫、愛太夫と左右に別れての掛け合いとなる。
先ず、はじめは権力者の蘇我入鹿に反抗し今は逼塞している久我之助(染五郎)と久我之助を恋する雛鳥(菊之助)が、川にせかれて会えずにいるもどかしさが主題となる。ひな祭りの雛壇、最上段に納まる内裏雛のように、着飾ってはいるが、自由はない。久我之助の大判事、定高の太宰少弐この両家の反目が、入鹿が雛鳥を入内させよと命じたところから場が緊迫している。
久我之助と雛鳥、いずれも品良く控えめに古代の恋愛を風雅に描き出す。染五郎は文人であることの矜恃さえ見える。雛鳥は早瀬を渡りたいといいだすほどの激情を隠している。梅枝の腰元桔梗が神妙。萬太郎の腰元小菊は、この幕で唯一のチャリが求められる役だけに、もう一歩地力が必要とされるのは仕方がない。
やがて桜の枝を携えて、仮花道から大判事、本花道から定高の出となる。風格、肚、いずれも現代歌舞伎を代表する大立者ふたりであり、申し分ない。特に定高は、すでのこの時点で雛鳥を入鹿に嫁がせるつもりはなく、ついには子供たちの悲劇を予感するからこそ、自らの子雛鳥がかわいいと述懐する。つまりは、観客には肚を割らずに、けれども内面のドラマは刻々と進行している。その進み具合を役者と観客が探り合う。筋立てや結末はレパートリーシアターだけによくわかっている。とすれば、この言葉、この仕草には、どんな親の気持ちがこもっており、それが子にどのように伝わっているかを読み取る二時間となる。その一刻、一刻を上手下手に別れた屋台を交互に使って進めていく進行、この構成を巧みにあやつっていく四人の役者。これだけの顔ぶれはめったにないことなので、二度三度、味到できるといいだろう
夜の部はほかに、染五郎、松緑の『らくだ』。緊迫した二時間のあとに落語からとった喜劇で客席をなごませる。追い出しに『元禄花見踊』。総踊りとはこうあるべきと愉しませる構成はさすが。幕切れ黒地の衣裳に変わって玉三郎がはっと場を引き締める。元禄の明朗で華やかな空気をよくつかんでいた。二十五日まで。