長谷部浩ホームページ

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2016年8月17日水曜日

【閑話休題56】政治劇として『シン・ゴジラ』は何を語るか。

 庵野秀明総監督による『シン・ゴジラ』を観た。前評判を聞くと賛否両論なようだが、少なくとも観客は詰めかけている。私が行ったのは昨日で、祝日でない平日だが、18時50分からの上映はほぼ満席だった。
私はエヴァンゲリオン世代ではないし、エヴァを通して観たことはない。従ってエヴァとの類似を語るべき立場にはない。エンターテインメントとして観ることしかできないが、よく撮れている映画だと思った。
3.11の津波の映像を踏まえてゴジラの河川での動きを瓦礫とともに描く。やがてゴジラの通り道に放射線が残存しているとわかる。観客は必然的に自然災害と人的災害が複合して起こったフクシマを東京にだぶらせる。東京に未曾有の災害が起こったとき、政府の政治家や官僚はいかに対応するかが、ドラマの軸となる。さらには、世界の強国がこのような事態にどのように反応し、強権的なアメリカの解決策をいかに切り抜けるかが、ゴジラ登場時の政府の課題となる。
その意味できわめて政治性の高い娯楽映画の位置づけとなる。「良質で」しかも権力性を隠さない政治家と、きわめて専門性の高い(いいかえればオタクの)官僚や学者が危機をきりぬける。基本的には日本人が好む自己犠牲と特攻精神に貫かれた「泣かせる」ドラマである。しかも、力点は、こうした政治家や官僚の美化ではなく、人類が作りだした文明の歪な結晶体に、次第にゴジラは化身していく。マーチ風の音楽からやがて叙情的な音楽がかぶさるようになり、身勝手な日本人によって作られ、混乱と破壊をもたらし、そして死に絶えていくゴジラへの挽歌が歌い上げられる。
疑問がいくつかある。総理官邸の上空からの絵はなんども繰り返される。ヘリポートが屋上にあることの強調だろうか。また、皇居の緑もまた俯瞰で映し出されるが、天皇と皇族がこのような災害のときにどうしたのか、どのような助言が政府からなされたのかが描かれていない。鎌倉に再上陸したゴジラは、自衛隊が引いた防衛線を突破して霞ヶ関へと迫る。政府首脳は霞ヶ関から立川に政府の災害本部を移す決断をする。この議論の前に、天皇家をいかにこの災害から逃すかが慎重に描かれなければ、政治劇としての体裁に綻びが生まれてしまう。閣議の場で台詞にするのがはばかられるのであれば、菊の紋章がついた黒い車両が列をなして走っていくカットを入れるだけでも、作り手の意志は伝わっただろうと思う。私は一度みただけなので、こうしたカットが入っていた可能性も否定できないが、私には確認できなかった。
これは疑問ではないが、現在自衛隊が保有する攻撃的な装備が、どのような状況にあるか、そして米軍のそれが遙かに上回ることを、イデオロギーを抜いて紹介したのは大きなことだった。首都東京への侵攻がどこかの国から行われた場合、防衛はどのような兵器で、どのような立案がなされるのか。自衛隊と海上保安庁だけが指揮命令系統に乱れなく、しかも文民統制がなされているように描かれていた。防衛大臣は余貴美子が演じたが、総理に決断を迫る様子はなかなかの見もので深く考えさせられた。
いずれにしろ、日本の現在が抱え込んだ問題を摘出する力のある映画で、アニメの実写化だといった非難はあたらない。むしろこうした危機的な状況では、人間は平坦な表情に返っていきがちで、もっとも生き生き振る舞っているのはゴジラだという逆説もまたおもしろかった。
また、ゴジラの歩き方が尋常ではない。後から聞いたのだが、狂言の野村萬斎がクレジットされていて、ゴジラの歩き方をモデリングするための素材となったのだろう。なるほどと思った。
この一点をとってみても、あなどれない映画である。