2019年1月23日水曜日

【書棚8】失われた時を求めて

自宅の書棚には、基本的に演劇書を置く。外の本は研究室に送る。どうしても手放せないものか文庫本だけ置く。との原則(あくまで原則ではあるが)を守ってきたために、演劇書以外の書籍というとさしたる本が見当たらない。

そこへふっと出現したのが、新潮社版のプルースト「失われた時を求めて」。大学生当時とても高額で揃いを買えなかった。大学の先輩の三宅さんが、揃いを所有していたために、一冊づつ借りて読んだ。読み終わったときに、哲学科の大学院にいた三宅さんは、気前よく「あげるよ」といった。驚愕の瞬間だった。
あれから、40年がすぎて、今も、スワン家のほうへがかたわらにある。外の巻は実家に。どうしてもこの一冊は手放せない。
通して読み返すことはないが、気に入った頁をめくったりはする。

【閑話休題79】芸談の行方

藝談を読む読者を、いったいどこに想定したらいいのか。
私には藝談らしき本が何冊かある。
もっとも藝談に近いのは、『坂東三津五郎歌舞伎の愉しみ』、『坂東三津五郎踊りの愉しみ』(いずれも岩波現代文庫)だろう。取材を重ねていた頃、もっとも(十代目)三津五郎さんと気にしたのは、すでに歌舞伎をよく知っている人を前提にはしない。かといって、まったくの入門書にはしない。歌舞伎を見始めて2−3年の観客に、もう少し歌舞伎や踊りを好きになってもらうにはどうしたらいいかを考えて、取材をし、原稿をまとめ、初校、再校とゲラを三津五郎さんとやりとりして出来上がったのを覚えている。
昨年の終わり、演劇評論家の犬丸治さんから『平成の藝談 歌舞伎の真髄にふれる』(岩波新書)をご恵贈いただいて、ようやく読み終わった。博覧強記の犬丸さんにしか書き得ない労作である。二代目又五郎や二代目松緑の芸談から、二代目吉右衛門まで。それぞれの時期に採られた藝談を入口に、犬丸さんの歌舞伎はこうあってもらいたいという強い思いが伝わってくる。
また、歌舞伎座の三階に、亡くなると写真が飾られる大立者ばかりではなく、小山三、歌江の藝談も収録されている。歌舞伎は伝承の芸術であるが、親から子へ藝が伝わるとは限らない。その残酷をもよく伝えている。

この二冊以外は、いわゆる藝談ではなく、役者から話を採りつつ、歌舞伎を生業としたひとりの人間のルポルタージュとして、『菊五郎の色気』や『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』などを書いた。純然たるノンフィクションとはいいがたい本からも、『平成の藝談』は、役者の発言を、引用して下さっているので、私としては面はゆいばかりである。

藝談がこれから先の時代に、どのようなかたちで生き残っていくのかが、本書では問われている。あるいは、役者自身が、アメーバーなどのブログやインスタグラムで自ら発信し始めた時代に、藝談は成り立つのか。その危うい分水嶺に私たちはいる。

【書棚7】日本舞踊曲集成

俗に「赤本」という。舞踊界では必須の玄人向きアイテム。普通の事典と、変わっているのは、長唄、清元、常磐津、義太夫など、地方のジャンルのなかで、曲名がアイウエオ順になっているところ。舞踊家さんはどのように使うのかはわかりませんが、単純にすべての曲がアイウエオ順になっているよりも、便利な局面があります。各項目に詞章、解題、大道具、小道具、衣裳、かつら、所要時間の項目があるので、番組の組み合わせを考えるときに重宝します。

ずいぶん前になりますが、菊之助さんと東日本大震災のためのチャリティ舞踊会を開いたとき、予算の関係で、清元なら清元の曲で三番並べなければならないことがあり、「なるほと、こんなふうに使うのだな」と納得しました。

左に並んでいるのは、日本舞踊辞典(郡司正勝編)。編者の目がゆきとどいたコンパクトな一冊。よっこらしょと大きな事典を開くまでもない場合に使います。

書いていて思ったのですが、このような種類の本は、すでに必要な人は持っているから、紹介する意味はあまりないのかな。

次回からは、ちょっと、演劇、舞踊から離れて選書してみます。

2019年1月22日火曜日

【書棚6】三島由紀夫戯曲全集

三島の戯曲のみの全集。全体の全集は場所を取りますし、演劇関係者には、これで十分役に立ちます。なにより造本と装幀がすばらしい。大日本印刷。大口製本。色気のある小さな全集です。


2019年1月21日月曜日

【書棚5】人形浄瑠璃文楽名演集

これもまたマニアックなDVDブック。私は文楽は専門ではありませんし、批評を書いたこともありません。ですが、歌舞伎の中心的な演目に義太夫狂言(丸本物)があるので、「あれっ、本行ではどうなっていたっけ」と疑問になったときに参照します。また、このDVDにはめったに上演されない段、また、伝説の映像も含まれているので、入手がむずかしくなる前に早めに手配をおすすめします(といっても、いったい何十人に需要があるのかわかりませんが)。あ、『義経千本桜』好き、『菅原伝授手習鑑』命の方々にも推薦します。
将来、こうした映像記録を、国立劇場が公開することもないとはいえないので、絶対に所有すべきとはいえません。現実に浮世絵アーカイヴとかは公開していますしね。

【書棚4】日本演劇史年表

またしても演劇評論家向けの一冊。早稲田の演劇博物館編。古代から現代(平成九年)までの、演劇を中心とした年表です。映画や芸能の項目もあります。毎日新聞社の「20世紀年表」と比べると、評論家以外には、あまり実用性がない特殊な年表ではありますが、これから演劇周辺を講じたりするかたにも必携です(笑)。あれいつの時代だっけ、○○と××はどっちが先行しているのとか、そんな疑問が浮かんだ場合、各項目を大事典で引かずに、ちゃちゃっと解決できます。

2019年1月20日日曜日

【書棚3】私的昭和史

桑原甲子雄の写真を見ると、瞬間を切り取る力ではなく、必然に出会う運命が才能なんだと思う。

【書棚2】演劇百科大事典

演劇評論家の基礎図書。自宅と研究室に二セット所有。発行元の平凡社は、新しい図書館向けには、増し刷りしている模様。たぶん古書店の価格もそれほどではないので、演劇好きにはぜひおすすめしたい。電子辞書にはきっと載っていないはずです。

【書棚1】年表 昭和・平成史 1026-2011

岩波書店のブックレット844。きわめてハンディな内容で、劇評や書き下ろしを書くときにいつもそばにある。ある年代を書くときは、とりあえず参照する。これ一冊ですべてが終わりはしない。年代をひらいて、気になる項目があったら、さらに調べ物をするきっかけとする。ジャンプ台のような一冊です。

【書棚0】書棚の紹介をはじめるにあたって

これまで劇評をこのブログでは綴ってきましたが、演劇ばかりではなく、書籍もまた、私のこれまでの生活とともにありました。もちろん仕事でもあります。どこまで続くかどうか分かりませんが、自分の書棚にある本を紹介していこうかと思います。

読者として想定するのは、演劇や本を偏愛する方々です。できれば、将来ものを書くつもりのある方に、役に立つようなエッセイにしたいと思っています。従いまして、書評ではありませんし、本のよしあしを判断したりはしないように務めます。事典や年表のたぐいも、できるだけご紹介できればと思っています。

こんなことを始める動機は、関係者が集まると、新聞、雑誌を含め、特に単行本が売れない。紙の時代が終わったとこの十年くらい耳にしたからです。もちろん私にも考えはありますが、まあ、嘆いていても仕方ない。紙を手にしたくなるようなブログを書けないか。それが、活字に育てられてきた自分の決算ともなりはしないかと思ったからです。

ただ、もちろん微力ですので、淡々たる短い文章を書き連ねていくだけなのですが。何もしないよりはいいかな。

2019年1月16日水曜日

【劇評131】奮闘する海老蔵。團十郎襲名を控えて

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 新橋演舞場

東京・浅草、歌舞伎座、演舞場、国立劇場に加えて、大阪・松竹座でも歌舞伎公演が空いている平成三十一年の一月。五座ともなれば、すべてに役者が行き渡るはずもなく、若手中心の一座や人気役者の奮闘公演の一座もある。新橋演舞場は、市川海老蔵による奮闘で、昼の部は二本、夜の部は口上を入れると三本に出演している。休演日を設けているとはいえ、獅子奮迅の働きで、この役者の自らを頼む覚悟が伝わってきた。
事情があり、昼の部は未見なので、夜の部について書く。
右團次の鳴神上人、児太郎の雲の絶間姫による『鳴神』から始まる。清新なキャストだが、水準を超える出来。右團次は明治座での初役があるから二度目だが、前半の威厳、姫が登場してからの動揺、破戒してからの俗人振り、そして、絶間姫の計略と分かってからの怒り。いずれもめりはりよく演じていて、この役がありがたい上人の転落の物語にとどまらず、超自然的な祈りで雨を封じ込める法力が、いかに大きな犠牲をともなうものかに通じているのがよくわかる。威厳に満ちた上人が、色気に溺れる落差を面白く見せればよいのではない。右團次の鳴神は、無理に大きな振れ幅を作らず、ひとりの人間としての鳴神に一貫性を与えていた。
児太郎の絶間姫は、ういういしく、天皇の勅定に従いなんとか雨を降らせ、民草を救おうとする懸命さが全体にあふれている。その分、亡き夫との思い出を語り、振りをつけて、色気をふりまくくだりに、これからが期待される。若くて美しいのはかけがえのない素質だが、その分だけ、冷ややかでふくよかな色気に乏しくなるのはいたしかたない。初役だけに、そのひたむきさがあれば舞台は保てる。白雲坊は、新蔵、黒雲坊は、新十郎。
続く『俊寛』は、なぜ、今この演目なのかと、発表になった途端、いぶかしく思った舞台。芝居に自信のある役者が俊寛役を勤めたくなるのは、もちろんよくわかる。しかし、荒事にもっとも資質を見せる海老蔵までもかと、役者の欲に圧倒された。全体に海老蔵流が貫いており、型を借りながらも、細かい段取りや肚の作り方は自在。特に海老蔵の俊寛は、目をぎょろつかせて、やつれ果てた化粧で登場し、身体と精神の衰えが、このような捨て鉢な結果を生んだ。そんなリアルな解釈に基づいているように見えた。成否はともかく、こうした大作で、新しいやり方を試す自信と気力が海老蔵に備わっていることを頼もしく思う。『俊寛』のみならず、吉右衛門という名優がいるだけに播磨屋の当り狂言を外の役者が挑むのは、大いなる勇気が求められる。伝統は大事で、伝承はもとより重要だが、破壊なくしては再創造が成し遂げられないのも確かである。
千鳥の児太郎は、昭和の『俊寛』を思わせる古風さがあって出色。ひたむきさは、ときに人を狂わせる。心理によらない千鳥であった。
右團次の基康は、事態が変わっても心境をぶらさない肚の強さがある。市蔵の瀬尾は憎々しさのなかに、杓子定規に物事をすすめなければ気が済まない性格がほのみえた。
九團次の成経、男女蔵の康頼。
そして、海老蔵の『春興鏡獅子』。シャイヨー宮の海老蔵襲名を含め、この人の鏡獅子を見てきたが、今回がもっともすぐれていた。特に、前シテ、弥生がいい。これまで、どうしても立役主体のたくましさが出ていたが、折れそうになる気持ちを鞭打ちながら、江戸城での踊りを続ける弥生の心情が全体から浮かび上がる。川崎音頭、袱紗、二枚扇、いずれも破綻ない。
後シテの獅子の精はすでに定評がある。無理に受けをとりに行かず、余裕をもっているかに見せるだけの技倆がそなわってきたように思う。孤蝶の精は、市川福太郎、市川福之助。飛鳥井は斎入。用人に新十郎、家老はッ橘。
なお、夜の部は『牡丹花十一代』が出た。実質的には清元の『お祭り』の変型。孝太郎を含め、一座総出で成田屋の繁栄を祝う。堀越勸玄と麗禾が客席を湧かせる。
のちに、海老蔵の團十郎襲名と、勸玄の新之助襲名が発表になった。慶賀の至りである。
別原稿で書くべき事柄かもしれないが、三ヶ月の襲名興行では、つねではなかなか見られない大顔合わせの舞台を期待している。二十七日。

2019年1月12日土曜日

【劇評130】平成の掉尾、吉右衛門の光秀と播磨屋一門の栄光。

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 歌舞伎座夜の部

歌舞伎座夜の部は、重量級の『絵本太功記』から。吉右衛門の光秀、雀右衛門の操、幸四郎の十次郎、又五郎の正清、歌六の久吉、そして急遽、東蔵から秀太郎に代わった皐月。平成歌舞伎の掉尾を飾る大芝居となった。
幸四郎の十次郎、米吉の初菊は、若々しく美しいが、戦場の前線近くにいる緊張感に乏しく、芝居になっているのが惜しい。
秀太郎の皐月と雀右衛門の操が出てから、急に事態は緊迫する。芸の力は恐ろしいと思うのは、個人の苦悩が、普遍的な人間の業へとつながってくるところにある。
歌六の久吉に華やかさがあり、又五郎の正清に力感がこもる。このふたりがあって、吉右衛門中心の一座。何をするわけではない。身体のありようをみるだけで、人の生を思う。さらにいえば、深い歴史の闇が漂うかのようだ。
さて、吉右衛門の光秀だが、これまで以上に古怪で、しかも一筋縄では理解出来ぬ肚の大きさがあった。ここにいるのは等身大の人間ではもとよりない。近代的な意味での心理を拒み、戦場が産み落とした怪物として舞台に君臨する。天を仰ぐときに、自然と対峙する人の覚悟が読める。
戦場から戻った十次郎に、光秀が薬を与えるときには、急に人の情があふれる。感情の振幅をいかに表現するべきかを教えられる舞台であった。
続いて『勢獅子』。梅玉、芝翫の鳶頭、雀右衛門と魁春の藝者を筆頭に、若手の鳶の者たちが踊りを競う。鷹之資は天禀だけではなく、踊り込んでいるのがよくわかった。
夜の部の切りは「お土砂」と「火の見櫓」。紅屋長兵衛の役は、役者が日頃つとめている役とこのチャリめいた役の落差を愉しむ芝居である。その意味で、猿之助は達者で笑いをとるが、「エッ、この役者がこんな役をするの?」という驚きがない。
七之助のお七、幸四郎の吉三郎は、匂い立つような若さがある。若さゆえの残酷、若さ故の暴走がほのみえる。「火の見櫓」で七之助は人形振りを見せ、後見とともに魅せるだけの力量がそなわっている。ただし、憐れなだけでは振りしきる雪の場が持たず、かといって狂気になってしまえばそれまで。お七は、観客が持っているイメージをいかに引き出すかにかかっているのだろう。下女お杉は、竹三郎でこなれている。二十六日まで。

【劇評129】白鸚の代表作となった大蔵卿

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 歌舞伎座昼の部

正月にふさわしい演目がある。
まず、第一は曽我物だろうし、また、三番叟もまた、祝祭感にあふれる。めでたい大団円で終わる吉田屋もまた、初春にふさわしい。 壽新春大歌舞伎、歌舞伎座昼の部は、まずは『舌出三番叟』。おおらかな芝翫の三番叟と、規矩正しい魁春の千歳。まことにめでたく、また今年の歌舞伎がはじまるのだと実感する。ただ、「舌出し」とあるが、赤い舌を出したようには思えなかった。愛嬌をもそなえた芝翫だけに、この狂言名と型が矛盾指定し待っている。
次は『吉例寿曽我』。今井豊茂補綴とあるが、黙阿弥の「雪の対面」を今月のために書き改めた作。完全復帰のために努力している福助の工藤の動きを最低限とするための工夫であろう。曾我一万は七之助。箱王は芝翫。この一対だが、七之助は柔らかなこなしで落ち着きがある。児太郎の舞鶴は、凜とした立ち姿を見せる。芝翫は稚気というよりは貫目が先立つ。そして、御簾内より福助の声が聞こえ、場内は応援の掛け声でいっぱいになる。一万、箱王の敵討ちは、今日はかなわぬ次第になるが、兄弟の無念を、福助の工藤が哀切に満ちた芝居で受け止める。支えがないとすっくと立つまでにはいかないが、回復振りがわかってほっとした。
さて、幸四郎の伊左衛門、七之助の夕霧。上方の風情には乏しいが、幸四郎の仁と柄は、つっころばしにもっともふさわしい。声もはりすぎず、夕霧を待つくだりも、さらっとやって愛嬌がこぼれる。威勢のよさ、若旦那の見栄のいじらしさがもっと観たい。七之助も位の高い太夫を演じてもう破綻がない。大役を近年勤めてきた自信がそうさせるのだろう。喜左衛門は東蔵。小声で出て、なにかあったのかと思いきや、インフルエンザで夜の部からの休演をのちに知った。かけがえのない役者であり、いつまでも舞台を観ていたい。早い回復をお祈りする。喜左衛門の女房おきさは秀太郎。さすがに廓の稼業の粋も甘いも知り抜いた人の風情があった。
昼の部の切りは、『一條大蔵譚』。檜垣と奥殿だが、白鸚に生彩がある。昭和四十七年十二月以来だと言うが、作り阿呆と内心の落差で笑いを取るやり方ではない。むしろ、忍従の日々を送っている人の辛さ、哀しさで一貫しており、観客の胸を打つ。また、側にいる常盤御前(魁春)や鳴瀬(高麗蔵)から敬意を持たれているとよくわかる。また、お京(雀右衛門)や鬼次郎(梅玉)が、大蔵卿の人となりにやがて感服していく過程が説得力を持った。平家追討が内心にあるからだけではない。憂き世の辛さを一身に受け止めている大蔵卿の人柄に、皆が共感していく。くぐもった口跡も、苦悩の表現として受け止めた。あえて受けを狙わず、ドラマの実質本位の役作りで、白鸚の代表作として残るだけの出来映えであった。二十六日まで。

【劇評128】ご趣向による菊五郎と贔屓の対話

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 国立劇場

菊五郎劇団恒例の正月興行。平成の終わりに選んだのは、『姫路城音菊礎石』。並木五瓶の『袖簿播州廻』を国立劇場文芸研究室が大胆に補綴した舞台である。
こうした復活狂言が現代性を持ち得るかどうか、鍵はふたつある。ひとつは、五瓶のような大作家であろうとも、現代人の歌舞伎Ⅱ対する理解に合わせて、錯綜する筋を明快にし、まだるい場面を大胆に整理すること。さらに、菊五郎のような統率力のある座頭の監修によって従来の歌舞伎の常識にとらわれない斬新な演出がほどこされること。この二点に尽きる。
まして、この正月公演は、菊五郎のサービス精神に貫かれている。「お客様も毎年『今回の趣向は半だろう』と楽しみに待っていて下さり、これが有難くも大変なところです。皆さまをアッと言わせたいですからね」。文芸趣味に傾斜したりすることなく、ただただご趣向を楽しんで頂く。この姿勢が観客との対話に通じているのだろう。
今回の舞台も肩の凝らぬ舞台で、序幕冒頭は姫路城の映像から始まる。おそらくはCGによるものだが、名高い名城の美しいプロポーションを見せ、さらに映像は天守閣に迫っていく。この舞台の背景にある場の魔力をあらかじめ観客に伝えようとしている。
全体を辛くのは、東雲の香炉の紛失と、桃井家の嫡男陸次郎(梅枝)の廓遊びの行方である。第二幕の見どころは、菊五郎の演じる桃井家の家老・印南内膳が、お家の窮地を救うかと見せ、実は…というどんでん返しがご趣向となる。菊五郎は役者の年輪を重ねて、世話物の二枚目から、実悪としての大きさ、貫目を強く示すようになった。肚を容易には割らないところは、菊五郎が以前から主義として持っている姿勢で、ここでもその瞬間瞬間の真実を生きる芝居が効果的になっている。
三幕目は菊之助の颯爽たる武者姿、十二単を着た時蔵の異形の後室碪の前がおもしろく、理屈抜きで役者の内部に埋蔵されている魅力を引き出している。
四幕目の世話場は、百姓の姉娘お辰(菊之助)がその伜平吉(寺嶋和史)の手を引いて登場する。のちに姿を変えて、お辰に瓜二つの小女郎狐(菊之助)が福寿狐(寺嶋眞秀)とともに現れる。他愛もないと思われるかも知れないが、ふたりの子役を生かした演出は、歌舞伎愛好家の興味をくすぐる。
さらに場が進んで、大蔵平作住居の場となると、松緑の平作こと古佐壁主水の見せ場となる。死んだはずの主水が百姓平作としてふたたび蘇る不思議、その哀切に陰影がこもる。
大詰は、香炉が取り戻され、ついにはめでたく大団円へと向かう。壮観な絵面で締めくくるが、下手端の松緑、上手端の菊之助、いずれも拵えがその前の幕と隔たりがあり、一瞬、だれとわからない。平吉(寺嶋和史)が傾城尾上(右近)に付き添われて、菊五郎の隣にいることもあるのだろう。こうした絵面は単なる豪華さだけではなく、芝居全体の見取り図となれば、胸がすくような幕切れとなるだろう。
安心して正月気分を満喫できる舞台であった。
二十七日まで。