2019年1月12日土曜日

【劇評128】ご趣向による菊五郎と贔屓の対話

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 国立劇場

菊五郎劇団恒例の正月興行。平成の終わりに選んだのは、『姫路城音菊礎石』。並木五瓶の『袖簿播州廻』を国立劇場文芸研究室が大胆に補綴した舞台である。
こうした復活狂言が現代性を持ち得るかどうか、鍵はふたつある。ひとつは、五瓶のような大作家であろうとも、現代人の歌舞伎Ⅱ対する理解に合わせて、錯綜する筋を明快にし、まだるい場面を大胆に整理すること。さらに、菊五郎のような統率力のある座頭の監修によって従来の歌舞伎の常識にとらわれない斬新な演出がほどこされること。この二点に尽きる。
まして、この正月公演は、菊五郎のサービス精神に貫かれている。「お客様も毎年『今回の趣向は半だろう』と楽しみに待っていて下さり、これが有難くも大変なところです。皆さまをアッと言わせたいですからね」。文芸趣味に傾斜したりすることなく、ただただご趣向を楽しんで頂く。この姿勢が観客との対話に通じているのだろう。
今回の舞台も肩の凝らぬ舞台で、序幕冒頭は姫路城の映像から始まる。おそらくはCGによるものだが、名高い名城の美しいプロポーションを見せ、さらに映像は天守閣に迫っていく。この舞台の背景にある場の魔力をあらかじめ観客に伝えようとしている。
全体を辛くのは、東雲の香炉の紛失と、桃井家の嫡男陸次郎(梅枝)の廓遊びの行方である。第二幕の見どころは、菊五郎の演じる桃井家の家老・印南内膳が、お家の窮地を救うかと見せ、実は…というどんでん返しがご趣向となる。菊五郎は役者の年輪を重ねて、世話物の二枚目から、実悪としての大きさ、貫目を強く示すようになった。肚を容易には割らないところは、菊五郎が以前から主義として持っている姿勢で、ここでもその瞬間瞬間の真実を生きる芝居が効果的になっている。
三幕目は菊之助の颯爽たる武者姿、十二単を着た時蔵の異形の後室碪の前がおもしろく、理屈抜きで役者の内部に埋蔵されている魅力を引き出している。
四幕目の世話場は、百姓の姉娘お辰(菊之助)がその伜平吉(寺嶋和史)の手を引いて登場する。のちに姿を変えて、お辰に瓜二つの小女郎狐(菊之助)が福寿狐(寺嶋眞秀)とともに現れる。他愛もないと思われるかも知れないが、ふたりの子役を生かした演出は、歌舞伎愛好家の興味をくすぐる。
さらに場が進んで、大蔵平作住居の場となると、松緑の平作こと古佐壁主水の見せ場となる。死んだはずの主水が百姓平作としてふたたび蘇る不思議、その哀切に陰影がこもる。
大詰は、香炉が取り戻され、ついにはめでたく大団円へと向かう。壮観な絵面で締めくくるが、下手端の松緑、上手端の菊之助、いずれも拵えがその前の幕と隔たりがあり、一瞬、だれとわからない。平吉(寺嶋和史)が傾城尾上(右近)に付き添われて、菊五郎の隣にいることもあるのだろう。こうした絵面は単なる豪華さだけではなく、芝居全体の見取り図となれば、胸がすくような幕切れとなるだろう。
安心して正月気分を満喫できる舞台であった。
二十七日まで。