2019年1月12日土曜日

【劇評130】平成の掉尾、吉右衛門の光秀と播磨屋一門の栄光。

歌舞伎劇評 平成三十一年一月 歌舞伎座夜の部

歌舞伎座夜の部は、重量級の『絵本太功記』から。吉右衛門の光秀、雀右衛門の操、幸四郎の十次郎、又五郎の正清、歌六の久吉、そして急遽、東蔵から秀太郎に代わった皐月。平成歌舞伎の掉尾を飾る大芝居となった。
幸四郎の十次郎、米吉の初菊は、若々しく美しいが、戦場の前線近くにいる緊張感に乏しく、芝居になっているのが惜しい。
秀太郎の皐月と雀右衛門の操が出てから、急に事態は緊迫する。芸の力は恐ろしいと思うのは、個人の苦悩が、普遍的な人間の業へとつながってくるところにある。
歌六の久吉に華やかさがあり、又五郎の正清に力感がこもる。このふたりがあって、吉右衛門中心の一座。何をするわけではない。身体のありようをみるだけで、人の生を思う。さらにいえば、深い歴史の闇が漂うかのようだ。
さて、吉右衛門の光秀だが、これまで以上に古怪で、しかも一筋縄では理解出来ぬ肚の大きさがあった。ここにいるのは等身大の人間ではもとよりない。近代的な意味での心理を拒み、戦場が産み落とした怪物として舞台に君臨する。天を仰ぐときに、自然と対峙する人の覚悟が読める。
戦場から戻った十次郎に、光秀が薬を与えるときには、急に人の情があふれる。感情の振幅をいかに表現するべきかを教えられる舞台であった。
続いて『勢獅子』。梅玉、芝翫の鳶頭、雀右衛門と魁春の藝者を筆頭に、若手の鳶の者たちが踊りを競う。鷹之資は天禀だけではなく、踊り込んでいるのがよくわかった。
夜の部の切りは「お土砂」と「火の見櫓」。紅屋長兵衛の役は、役者が日頃つとめている役とこのチャリめいた役の落差を愉しむ芝居である。その意味で、猿之助は達者で笑いをとるが、「エッ、この役者がこんな役をするの?」という驚きがない。
七之助のお七、幸四郎の吉三郎は、匂い立つような若さがある。若さゆえの残酷、若さ故の暴走がほのみえる。「火の見櫓」で七之助は人形振りを見せ、後見とともに魅せるだけの力量がそなわっている。ただし、憐れなだけでは振りしきる雪の場が持たず、かといって狂気になってしまえばそれまで。お七は、観客が持っているイメージをいかに引き出すかにかかっているのだろう。下女お杉は、竹三郎でこなれている。二十六日まで。