2017年7月16日日曜日

【閑話休題65】雑誌「悲劇喜劇」で連載をはじめることになりました。

新しく雑誌の連載を始めることになりました。
早川書房発行の『悲劇喜劇』9月号(8月7日発売)からスタートします。
先週、第一回の原稿を入稿したところです。
毎回、400字詰めで15枚の原稿を書くことになりました。

タイトルは「シーンチェンジズ 長谷部浩の演劇夜話」と決まり、
頁のデザインも固まりました。
場面転換を意味する用語です。
はじめは「つれない女」とか「去年の雪」などと、
ひねりまくったタイトルを考えていたのですが、
懐の深い編集者にやんわりと断られ、
今のタイトルに落ち着きました。
ダメといわないで筆者を導くのが、
よい編集者というものですね。
もちろん、今はこの「シーンチェンジズ」というタイトルに満足している。

実はこの連載、編集部と話をしてから、
はじめるまでになんと、二年半が経過してしまいました。
なんともスロースターターで気恥ずかしい。
やれやれ。
弁解がましくなるのですが、この間、『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』や『権力と孤独 演出家蜷川幸雄の時代』の二冊を書き下ろしていたので
とても長文の劇評を書く余裕がありませんでした。

この間、すこし考えが変わって、
劇評の要素もある閑談のような形を考えています。

第一回で書いたのは、ジョン・ケアード演出の『ハムレット』と
野村萬斎演出の『子午線の祀り』ですが、
直近の舞台から、舞台や書籍の想い出を掘り出して、
思いつくままに書いていこうと思っています。
今回は蜷川幸雄演出の『ハムレット』や古川日出男現代語訳の『平家物語』の話も出てきます。
とりとめない断章ですが、演劇好きの読者にとって、気楽な読みものになれば嬉しく思います。

果たしてどんな流れになるかは、定かではありませんが、
古典、もしくはそれに準じた作品を扱っていきます。

現代演劇と歌舞伎の垣根を越えて、ひとつらなりに書けたらと思っています。


【劇評80】愛嬌を売らない菊之助の大蔵卿

歌舞伎劇評 平成二九年七月 国立劇場

歌舞伎鑑賞教室も九二回目。私自身も高校生のときに、団体で鑑賞した。この舞台が若い世代と歌舞伎との出会いとなる場合が大木だけに演目の選定には、なみなみならぬ苦心があるのだろう。
今月は菊之助初役の『一條大蔵譚』。「檜垣茶屋」と「奥殿」が出た。初役といっても、常盤御前、鬼次郎、お京と主要な役はすでに勤めているから、この大蔵卿で仕上げとなる。
監修は吉右衛門。それだけに愛嬌に頼るよりは、世を厭うて、狂言三昧にあけくれる趣味人の苦渋が滲み出る舞台となった。
門からの出で、菊之助の大蔵卿は、幼いそぶりを貫いている。(尾上)右近のお京の舞を愉しむ場面がいい。心底、狂言の世界に遊ぶ粋人の様子が描出される。菊三呂の鳴瀬とお京を相手に「太郎冠者のお京あるかや」と趣向を楽しむ件は、三人がいっとき憂き世を忘れるだけの弾みがほしい。
かりそめの阿呆振りは、なかなかに手強い。そのかわり「奥殿」に入って、世を忍ぶ仮の姿をかなぐり捨ててからの立派さ、大きさは、この鑑賞教室で「渡海屋・大物浦」の知盛を経験した蓄積が生きている。彦三郎の鬼次郎に落ち着き、右近のお京にさわやかな色気がある。常盤御前は若手には荷が重いが、進境著しい梅枝だけに、人生の辛酸をなめてきた御前の心の内をのぞかせている。
浄瑠璃が〽秋の木の葉と散りていく」を受けて「無念にあろう、道理道理」と受ける件は、軍物語のようで味わい深い。
〽彼の唐土の会稽山、恥を雪ぎし越王の」をじっくり聴いて、衣裳ぶっ返りとなり、打ち上げの見得に至る見せ場は、吉右衛門の指導が行き届いているのだろう。単に大きく見せるばかりではなく、華やかな人となりがある。愛嬌を売るのではなく、品格をみせていく行き方。音羽屋の血も生きて、菊之助が神妙に勤めている。

【劇評79】海老蔵を活かす復活狂言

歌舞伎劇評 平成二九年七月 歌舞伎座夜の部

歌舞伎座夜の部は、海老蔵と長男勸玄が宙乗りを勤める『駄右衛門花御所異聞』を通す。竹田治蔵作の芝居を復活させた台本(織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎 補綴・演出)で、海老蔵の魅力の源泉をよく理解している。
海老蔵がなぜ歌舞伎で突出した人気を誇るのか。それは荒事の暴力性と和事の柔らかさのあいだを自在に横断する力がそなわっているからだ。また、その振れ幅が大きく、まるで目くらましにあっているかのような幻を観客にもたらす。
海老蔵は、発端から廓遊びに入れ込んだ玉島幸兵衛を演じたかと思うと、一転して、日本駄右衛門に替わって骨太な悪党振りをみせる。この振幅こそが海老蔵の真骨頂だろう。
二幕目第一場は、大井川の場。巳之助の月本始之助と新悟の傾城花月の道行。富士を望む街道をいく。この色模様を所作事で見せるだけの力をふたりがそなえつつあるのに目を見張る。
第二場のお才茶屋で児太郎お才の名にふさわしく才気走った女の魅力を発散する。「こんな金の亡者は見たことがない」との評言が笑いを誘うだけのしたたかさがあって、底を割らない。
九團次のお才の兄長六が金をせびるときのせこい様子、廣松の寺小姓采女の色気もよい組み合わせとなっている。弘太郎の駄右衛門子分早飛もさまになっている。海老蔵の幸兵衛は、ここで廻国修業の僧となって現れるが、やがて殺し場になって、血が流れ、小判が手水鉢からあふれ出る。人間の欲望が全開となる場で、『伊勢音頭恋寝刃』の貢が二重写しになる。
海老蔵を中心に、若手の力を引き出す台本と演出で、新しい世代の歌舞伎を予感させる舞台となった。
さて、お待ちかねは、海老蔵と勸玄の宙乗り、私が見た日は客席に親しい人を見つけたのか、勸玄が指をさして海老蔵に知らせ、手を振る余裕を見せた。花道の出といい舞台度胸がよく満場の喝采を浴びた。これも歌舞伎なのだ、いやこれが歌舞伎なのだと実感させれらる。
大詰は、東山御殿の場から奥庭に続き、さらに御殿にいってこいとなる構成。焔に包まれるなか、ゾンビのような亡者があふれる演出がおもしろい。
繰り返しになるが、海老蔵という役者を活かし抜いた舞台であった。