2017年7月16日日曜日

【劇評80】愛嬌を売らない菊之助の大蔵卿

歌舞伎劇評 平成二九年七月 国立劇場

歌舞伎鑑賞教室も九二回目。私自身も高校生のときに、団体で鑑賞した。この舞台が若い世代と歌舞伎との出会いとなる場合が大木だけに演目の選定には、なみなみならぬ苦心があるのだろう。
今月は菊之助初役の『一條大蔵譚』。「檜垣茶屋」と「奥殿」が出た。初役といっても、常盤御前、鬼次郎、お京と主要な役はすでに勤めているから、この大蔵卿で仕上げとなる。
監修は吉右衛門。それだけに愛嬌に頼るよりは、世を厭うて、狂言三昧にあけくれる趣味人の苦渋が滲み出る舞台となった。
門からの出で、菊之助の大蔵卿は、幼いそぶりを貫いている。(尾上)右近のお京の舞を愉しむ場面がいい。心底、狂言の世界に遊ぶ粋人の様子が描出される。菊三呂の鳴瀬とお京を相手に「太郎冠者のお京あるかや」と趣向を楽しむ件は、三人がいっとき憂き世を忘れるだけの弾みがほしい。
かりそめの阿呆振りは、なかなかに手強い。そのかわり「奥殿」に入って、世を忍ぶ仮の姿をかなぐり捨ててからの立派さ、大きさは、この鑑賞教室で「渡海屋・大物浦」の知盛を経験した蓄積が生きている。彦三郎の鬼次郎に落ち着き、右近のお京にさわやかな色気がある。常盤御前は若手には荷が重いが、進境著しい梅枝だけに、人生の辛酸をなめてきた御前の心の内をのぞかせている。
浄瑠璃が〽秋の木の葉と散りていく」を受けて「無念にあろう、道理道理」と受ける件は、軍物語のようで味わい深い。
〽彼の唐土の会稽山、恥を雪ぎし越王の」をじっくり聴いて、衣裳ぶっ返りとなり、打ち上げの見得に至る見せ場は、吉右衛門の指導が行き届いているのだろう。単に大きく見せるばかりではなく、華やかな人となりがある。愛嬌を売るのではなく、品格をみせていく行き方。音羽屋の血も生きて、菊之助が神妙に勤めている。