歌舞伎劇評 平成二九年七月 歌舞伎座夜の部
歌舞伎座夜の部は、海老蔵と長男勸玄が宙乗りを勤める『駄右衛門花御所異聞』を通す。竹田治蔵作の芝居を復活させた台本(織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎 補綴・演出)で、海老蔵の魅力の源泉をよく理解している。
海老蔵がなぜ歌舞伎で突出した人気を誇るのか。それは荒事の暴力性と和事の柔らかさのあいだを自在に横断する力がそなわっているからだ。また、その振れ幅が大きく、まるで目くらましにあっているかのような幻を観客にもたらす。
海老蔵は、発端から廓遊びに入れ込んだ玉島幸兵衛を演じたかと思うと、一転して、日本駄右衛門に替わって骨太な悪党振りをみせる。この振幅こそが海老蔵の真骨頂だろう。
二幕目第一場は、大井川の場。巳之助の月本始之助と新悟の傾城花月の道行。富士を望む街道をいく。この色模様を所作事で見せるだけの力をふたりがそなえつつあるのに目を見張る。
第二場のお才茶屋で児太郎お才の名にふさわしく才気走った女の魅力を発散する。「こんな金の亡者は見たことがない」との評言が笑いを誘うだけのしたたかさがあって、底を割らない。
九團次のお才の兄長六が金をせびるときのせこい様子、廣松の寺小姓采女の色気もよい組み合わせとなっている。弘太郎の駄右衛門子分早飛もさまになっている。海老蔵の幸兵衛は、ここで廻国修業の僧となって現れるが、やがて殺し場になって、血が流れ、小判が手水鉢からあふれ出る。人間の欲望が全開となる場で、『伊勢音頭恋寝刃』の貢が二重写しになる。
海老蔵を中心に、若手の力を引き出す台本と演出で、新しい世代の歌舞伎を予感させる舞台となった。
さて、お待ちかねは、海老蔵と勸玄の宙乗り、私が見た日は客席に親しい人を見つけたのか、勸玄が指をさして海老蔵に知らせ、手を振る余裕を見せた。花道の出といい舞台度胸がよく満場の喝采を浴びた。これも歌舞伎なのだ、いやこれが歌舞伎なのだと実感させれらる。
大詰は、東山御殿の場から奥庭に続き、さらに御殿にいってこいとなる構成。焔に包まれるなか、ゾンビのような亡者があふれる演出がおもしろい。
繰り返しになるが、海老蔵という役者を活かし抜いた舞台であった。