2016年5月27日金曜日

【閑話休題38】オバマ大統領の空疎な言葉

オバマ大統領の空疎な演説を聴いていたら、眠くなってしまった。実体のない言葉よりは、もうすこし原爆資料館に時間を割いたらどうなのだろう。元大統領になったときの影響力保持よりは、原爆の現実を直視する体験を持ってほしい。もはや、演説家としてのカリスマさえ消えてしまった。
隣に控える安倍首相の存在感はさらに薄い。自分が米議会で演説したことから、この広島の重大なスピーチをはじめるのは、いかがなものか。こんな指導者を日本は許容しているのかと思うと情けなくなった。

2016年5月26日木曜日

【劇評48】蜷川幸雄の遺作『尺には尺を』。最後の贈り物。

現代演劇劇評 平成二十八年五月 彩の国さいたま芸術劇場 

演出家蜷川幸雄の遺作『尺には尺を』を彩の国さいたま芸術劇場で観た。
幕切れ、背景が飛ぶと青空が広がっている。カーテンコールでは、蜷川実花撮影の大きな遺影が掲げられる。その青空を観ながら、ただならぬ絶望のなかでも、かすかな希望を語ってきた蜷川幸雄の演出を観るのもこれで最後なのだと思ったら、胸に迫るものがあり、泪を押しとどめることができなかった。
『尺には尺を』は、シェイクスピアの喜劇のなかでも上演回数が少ない。それには理由がある。まず、主人公のアンジェロの造形がむずかしい。法に忠実なはずの謹厳実直な人物が、自ら修道女のイザベラに迫る。しかも、婚約者を妊娠させた罪で死刑を命じられた兄の赦免を嘆願に来たイザベラを口説くのである。主役といっても中途半端な悪役であって、成立させるのがむずかしい。今回この難役を引き受けた藤木直人は、前半の鉄面皮ぶりから、一転して色に迷う人間くさいアンジェロを作り上げ、成功した。また、イザベラの多部未華子も、徹底して清純に作ることで、かえって頑なで妥協を知らない少女を浮かび上がらせた。このふたりのバランスのよさが劇を支えている。
そして、なんといっても公爵、修道僧のヴィンショーを演じた辻萬長の人間としての厚みが劇を豊かなものにしていた。公爵という高い身分でありながら、詭計をめぐらして、すべての人々を救おうとする。高貴なだけではなく、いたずらな心を兼ね備えているからこそ、魅力的な人物として舞台にリアリティを与えた。
大石継太のルーチオ、立石涼子のオーヴアンダン/フランチェスカ、石井愃一のポンベイと蜷川組常連の腕のある役者が、人間はさもありなんと観客を引き込む。周本絵梨香のマリアナは、ひたむきさを前面に出して、現代ではありえない行動に説得力を持たせた。
十二月に蜷川は入院しているので、稽古場には立てなかった。それにもかかわらず、まぎれもなく蜷川作品となっているのは、演出補の井上尊晶はじめスタッフが、蜷川の演出がいかなるものであるのかを熟知し、蜷川ならばどんなだめ出しをするかを徹底して想像し、検証する作業を怠らなかったからろう。蜷川は、自分が手塩にかけたスタッフ、キャストから最後の贈り物をもらって逝った。そして観客もまた、その贈り物を受け取ることができた。かけがえのない舞台である。六月十一日まで。そののち、北九州、大阪公演が控えている。

2016年5月22日日曜日

【お知らせ】渡辺保さんの『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』評

私自身、書評をときおり頼まれるので、感覚的にわかるのだけれど、
今度の『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』は、物語性が強く、
評論として扱う論点がむずかしい。
「私の本は、これまで書評に恵まれてきたけれども、今回は出ないかもしれませんよ」
と入稿のときに担当編集者に断りをいれていたほどだった。

諦めかけていたところに、演劇評論家の渡辺保さんが、
五月二十二日付毎日新聞に、懇切な書評を書いて下さった。
毎日新聞のサイトから、無料で読めるようです。

以下は、文春プロモーション部のtweetから引用します。

毎日新聞で『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』(長谷部浩/文春新書) ow.ly/t1Zw300rS4z を渡辺保さん(演劇評論家)がご紹介くださいました。「どんな映像よりも強く、二人の息吹がこの本から立ち上って来る」 ‪#‎歌舞伎‬

今週の本棚:渡辺保・評 『天才と名人−中村勘三郎と坂東三津五郎』=長谷部浩・著 二人の遺した歌舞伎への「警告の書」 - 毎日新聞 ow.ly/KWsO300rS8N #歌舞伎

2016年5月21日土曜日

【閑話休題37】蜷川幸雄さんの写真

蜷川幸雄さんが亡くなって1週間が過ぎた。
親しかった関係者とそれぞれ思い出話をする機会があったのだが、
なぜか泪が出てこない。なにか感情があふれでるのに、
堰のようなものがかかっていて、とどまっている。
もう、しばらくしたらその信じられない死が、実感となり、
哀しみが襲ってくるのだろうと思う。
他の気の張る仕事が重なり、
忙しい1週間だったこともあるのだろう。

ふと思いついて、探したのだが意外に、蜷川さんを撮った写真がなかった。
勘三郎さんや三津五郎さんのときも思ったのだが、どうも尊敬する人たちに、カメラのレンズを向けるのは遠慮があったようだ。
このカットは演出助手時代の藤田俊太郎さんを撮影しますと断って、背景に写っていただいた。
元気な蜷川さんは、こんなとき、きちんと役割を演じてくれた。

2016年5月18日水曜日

【お知らせ】藤田俊太郎さんの追悼文

五月一七日付産経朝刊に載った演出家・藤田俊太郎さんの追悼文です。
藤田さんは、蜷川幸雄さんの演出助手を十年余り務めました。
http://www.sankei.com/entertainments/news/160517/ent1605170001-n1.html

2016年5月12日木曜日

【訃報】演出家蜷川幸雄の時代

状態がよくないとは聞いていたが、こんなに早くそんな知らせが来るとは思わなかった。
演出家蜷川幸雄と同じ時代を生き、たくさんの舞台を観てきた。
それだけではなく、聞書きを残す光栄を得た。劇評もたくさん書いた。
弱者に優しく、困ったときは助けて下さったのを感謝している。

偶然ではあるけれども、芸大の私の研究室から蜷川さんの演出助手となり、
十年修業して、現在はミュージカルの演出をしている藤田俊太郎さんと昨日会った。
大学院の修士1年に向けた講義で、東京をテーマに話した。
藤田さんの演出作品を三本紹介したあとで、
2000年に上演された「グリークス」の冒頭の話になった。
それが昨日のことで、呆然としている。

依頼があった追悼文を書き終え、今日できる果たすべき役割を終えた。
弔問に伺おうかと思ったが、近しい関係者から連絡あり、
ご家族がお疲れなのでと、丁寧な挨拶をいただいた。
また、このブログでも思い出を書く機会があるかと思うが、
今は、追悼文の筆を置いたので、これまでとしたい。

【劇評47】初目見得と海老蔵、菊之助の『男女道成寺』

 歌舞伎劇評 平成二十八年五月 歌舞伎座夜の部

新しい命は、人間を無条件に幸せにする。菊五郎、吉右衛門の孫、菊之助の長男寺嶋和史の初目見得は、たくさんの祝福の花に彩られて、歌舞伎の未来へと希望をつなぐ一幕となった。『勢獅子音羽花籠』は、幹部が勢揃い。威儀を正しての口上にはない暖かいひとときであった。
続く『三人吉三』は、菊之助のお嬢、海老蔵のお坊、松緑の和尚と三人の吉三が出会う「大川端の場」。この一場だけだす場合は、筋や型うんぬんよりも、役者っぷりを競うことになる。また、それぞれの役にいかにみずからの個性を打ち出すかも見どころとなる。この顔合わせでは七年ぶりになるが、やはり大きくこの世代が歌舞伎のフロントに出てきた印象が強い。なかでもきかん気が強いが懐も深くなった海老蔵のお坊、単に美しいばかりではなく、豊潤な色気に悪の気配を隠した菊之助のお嬢の進境が著しい。和尚は座頭の役だけに、ふたりの役者を納めるには、さらに年輪が必要になるのだろう。(尾上)右近のおとせ。
松緑の出し物は『時今他桔梗旗揚』。「馬盥」と「連歌の場」だが、光秀を松緑で観るのは平成十八年の新橋演舞場以来だから十一年振りとなる。当時は大きく見せようと身体が伸び上がる癖が目立ったが、さすがに肚に落ちてきた。團蔵の春永は光秀をいたぶる役だが、光秀を襲名で経験しているだけに、ただ押すだけではなく、攻めどころ、引くところ緩急があって長い「馬盥」を持たせる。「連歌の場」となってからは、徹底した辛抱の果てに、光秀は本能寺で春永を討つと決意する。それまでのこころの内を活写していく。辛抱立役に近い役どころだが、こうした芝居は脇に人を得ないとむずかしい。その点、時蔵の皐月の慎重、梅枝の桔梗のひたむきさ、受けの芝居もすぐれてこの場を盛り上げる。ただ、幕切れの光秀の高笑いはいかがなものか。『時平の七笑』ではない。せっかく耐えに耐え、皐月はじめ一族へ後を託し、家臣たちを戦場に駆り立てる武将の大きさがこの笑いによって吹き飛んでしまっている。
夜の部の切りは海老蔵、菊之助による『男女道成寺』である。菊之助は、玉三郎と『二人道成寺』の上演を重ねて、花形では道成寺物のトップランナーになったといっていい。「男女」とはいえ、この菊之助と同じ舞台でともに踊るのは、海老蔵にとって相当の勇気が必要だと思った。
ところが幕が開いてみると、冒頭の金冠からその不安はまったくといっていいほどなく、この踊りは単に舞踊技術ではなく、役者の華を見せる手もあるのだと納得させられる。それほどの意気込みで海老蔵は、左近となってからも誠実にこの大曲に向かい合っている。菊之助は当然のことながら、技術的には成熟し、そのためその場、その場に余裕が感じられる。お嬢吉三でも書いたが、自らを頼む心があるから、熟れた女性の色気が全体に漂う。従って玉三郎との『二人道成寺』ではなかなか経験できなかった「恋の手習い」のくだりに廓の女の艶が出るようになった。ただ、『男女道成寺』のために「鞠歌」のくだりを海老蔵に譲ることもあって、おぼこい町娘を強調するところが乏しい。可憐だけではだめ、色気いっぺんとうでもだめ。なかなかむずかしい。解決策としては、一人で踊る「花笠」では色気を抑えて、おぼこく踊ると全体に変化がつくだろうと思う。いずれにしても高いレベルでの註文で、ふたりの華やかな舞台にけちをつけるつもりはみじんもない。二十六日まで。

2016年5月5日木曜日

『お知らせ』『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』に重版がかかりました

岩波の担当者から連絡が入り、『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』に続いて『踊りの愉しみ』にも重版がかかったという。地味といえば地味な一冊だが、この二月、シネマ歌舞伎で勘三郎との『棒しばり』と『喜撰』が上演されたのも影響しているのかも知れない。もちろん少部数ではあるけれども、また、新しい読者の手に届くと思うとなにより嬉しい。『天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎』を併読していただくと、踊りの背景にふたりのライバルの物語があるとわかったいただけるのではないか。

【劇評46】時代物の未来を占う海老蔵、菊之助の「寺子屋」歌舞伎座昼の部

 歌舞伎劇評 平成二十八年五月 歌舞伎座昼の部

現在の大立者、菊五郎、吉右衛門が孫の寺嶋和史の初お目見得のために共演する團菊祭五月大歌舞伎。番組の全体を見渡せば、松緑、海老蔵、菊之助の世代が芯を勤める清新さ。しかも、初お目見得もあって顔見世にも匹敵する座組となった。
昼の部は明治三十二年に歌舞伎座で初演され、昭和三十七年に上演されてから絶えて舞台にのらなかった『鵺退治(ぬえたいじ)』(福地桜痴作 今井豊茂補綴 藤間勘十郎演出)。もちろん復活狂言の意義を否定するわけではないが、それには理が必要である。顔は猿、胴体は狐、手足が虎、尾が蛇という姿の着ぐるみとの立廻りが売り物では、観劇の意欲がそがれてしまう。上演台本は形式は整っているが、実質がなく、ドラマととしての展開に乏しい。梅玉の源頼政、又五郎の猪の早太、関白九条基実の錦之助、魁春の菖蒲の前。いずれも歌舞伎の役柄の類型のなかでこなしているが、内実で観客を揺さぶるまでには至っていない。
続いて『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」。海老蔵の松王丸、菊之助の千代、梅枝の戸浪、松緑の武部源蔵という布陣で、実力を備えてきた花形・中堅が時代物にどう立ち向かうか歌舞伎の未来を占う一幕となった。松王丸は、幸四郎、吉右衛門、仁左衛門のように現在も立派な立役が健在なだけに、清新さだけで新たな造形がなされるわけもない。海老蔵の松王丸は、出がやや病を強調しすぎる嫌いはあるにしても、「何をばかな」と戸浪に怒りをあらわににするとき、凄絶さにすぐれている。自らの子を殺すことをいとわない怖さが備わっているから、梅枝の受けの演技も効果的に生きてくる。さらには父團十郎ゆずりの刀を抜いての首実検の立派さ、そして覚悟の強さ、ずっと抑制を続けた果てに、肚をわって泣き上げる件りまで、役を作りすぎず丁寧に演じている。
菊之助の千代は、一昨年の大阪松竹座で仁左衛門の松王丸に戸浪を勤めた経験も生きて、義太夫狂言ならではの間の詰め方、糸への乗り方、申し分のない出来で、今後、「寺子屋」ばかりではなく時代物の女方では引く手あまたになるだろう。帷子を抱いて泣き落とす件りだが、やや身体よりは声が先行している。泣き声はあくまで抑えた身体からあふれ出るようでありたい。このときの海老蔵の受けの芝居もよく嘆きの大きさがふたり並ぶと見えてくる。門火を求める台詞にも愁いと哀感がこもった。梅枝の戸浪は、出過ぎず、歌いすぎず、この狂言にきちんと向かい合って、修業を続けているのがよくわかった。松緑の源蔵だが、口跡の乱れがこの役の深刻さ、救いのなさをさまたげてしまっている。また、戸浪との間に情愛が乏しく、小太郎を菅秀才の身替わりと決めてから、源蔵自身の危機は、またこの夫婦の絶望でもあるようにみえるとなお劇が深まるだろう。
さて、時蔵の十六夜、菊之助の清心で久しぶりに出た『十六夜清心』だが、「百本杭の場」では、清心へと愛情を迫る十六夜に対して、廓に戻れと説得する清心の冷ややかさが不足しており、中途半端になっている。この場では、女性の過度な愛情に飲まれていく僧の身勝手さをも見せておかなければ、第三場「百本杭川下の場」での求女殺しと、悪党の目覚めへとつながらない。
時蔵はさすがの貫禄で、そのときの愛情にすがって生きる廓の女の哀しさで全体を通す。とくに第二場、「白魚船の場」での混乱がよい。なだめる左團次の白蓮、亀三郎の船頭三次も手堅い。第三場の幕切れ、白蓮に釣れられて上手から登場する十六夜がいい。そののち、「だんまり」となって、清心が花道七三に行って絵面に決まる幕切れは黙阿弥ならではの頽廃した風情が出た。
少し戻るが、菊之助の清心が「しかしまてよ」と現世の欲望に目覚めるときの目のぎらつき。先月明治座で『女殺油地獄』で親しい姉のようなお吉を殺した与兵衛の残響が感じられた。
切りはお楽しみ。吉右衛門の五右衛門と菊五郎の『楼門五三桐』。芸容の大きさはふたりとも申し分なく、値千金の一刻一刻を愉しんだ。五右衛門に打ちかかる久吉の臣、右忠太が又五郎、左忠太が錦之助という豪華版である。二十六日まで。

2016年5月3日火曜日

【閑話休題36】艶。寿南海先生の「黒髪」。

艶。

花柳寿南海先生の「黒髪」。

よくピナ・バウシュの例をとって、飛んだり跳ねたりすることが、踊りなのですかと講義で問いかけたりする。

寿南海先生は、最小限の動きだけれど、その柔らかさ、自在さは、到底若い踊り手は及ばない。ダンスとは何かを考えさせられる。
三十年くらい前に、晩年の武原はんさんの「雪」をこの大劇場で観たときのことを思い出したりした。

大きく動くこと、敏捷に動くことは、踊りの必要条件ではない。