2016年5月5日木曜日

【劇評46】時代物の未来を占う海老蔵、菊之助の「寺子屋」歌舞伎座昼の部

 歌舞伎劇評 平成二十八年五月 歌舞伎座昼の部

現在の大立者、菊五郎、吉右衛門が孫の寺嶋和史の初お目見得のために共演する團菊祭五月大歌舞伎。番組の全体を見渡せば、松緑、海老蔵、菊之助の世代が芯を勤める清新さ。しかも、初お目見得もあって顔見世にも匹敵する座組となった。
昼の部は明治三十二年に歌舞伎座で初演され、昭和三十七年に上演されてから絶えて舞台にのらなかった『鵺退治(ぬえたいじ)』(福地桜痴作 今井豊茂補綴 藤間勘十郎演出)。もちろん復活狂言の意義を否定するわけではないが、それには理が必要である。顔は猿、胴体は狐、手足が虎、尾が蛇という姿の着ぐるみとの立廻りが売り物では、観劇の意欲がそがれてしまう。上演台本は形式は整っているが、実質がなく、ドラマととしての展開に乏しい。梅玉の源頼政、又五郎の猪の早太、関白九条基実の錦之助、魁春の菖蒲の前。いずれも歌舞伎の役柄の類型のなかでこなしているが、内実で観客を揺さぶるまでには至っていない。
続いて『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」。海老蔵の松王丸、菊之助の千代、梅枝の戸浪、松緑の武部源蔵という布陣で、実力を備えてきた花形・中堅が時代物にどう立ち向かうか歌舞伎の未来を占う一幕となった。松王丸は、幸四郎、吉右衛門、仁左衛門のように現在も立派な立役が健在なだけに、清新さだけで新たな造形がなされるわけもない。海老蔵の松王丸は、出がやや病を強調しすぎる嫌いはあるにしても、「何をばかな」と戸浪に怒りをあらわににするとき、凄絶さにすぐれている。自らの子を殺すことをいとわない怖さが備わっているから、梅枝の受けの演技も効果的に生きてくる。さらには父團十郎ゆずりの刀を抜いての首実検の立派さ、そして覚悟の強さ、ずっと抑制を続けた果てに、肚をわって泣き上げる件りまで、役を作りすぎず丁寧に演じている。
菊之助の千代は、一昨年の大阪松竹座で仁左衛門の松王丸に戸浪を勤めた経験も生きて、義太夫狂言ならではの間の詰め方、糸への乗り方、申し分のない出来で、今後、「寺子屋」ばかりではなく時代物の女方では引く手あまたになるだろう。帷子を抱いて泣き落とす件りだが、やや身体よりは声が先行している。泣き声はあくまで抑えた身体からあふれ出るようでありたい。このときの海老蔵の受けの芝居もよく嘆きの大きさがふたり並ぶと見えてくる。門火を求める台詞にも愁いと哀感がこもった。梅枝の戸浪は、出過ぎず、歌いすぎず、この狂言にきちんと向かい合って、修業を続けているのがよくわかった。松緑の源蔵だが、口跡の乱れがこの役の深刻さ、救いのなさをさまたげてしまっている。また、戸浪との間に情愛が乏しく、小太郎を菅秀才の身替わりと決めてから、源蔵自身の危機は、またこの夫婦の絶望でもあるようにみえるとなお劇が深まるだろう。
さて、時蔵の十六夜、菊之助の清心で久しぶりに出た『十六夜清心』だが、「百本杭の場」では、清心へと愛情を迫る十六夜に対して、廓に戻れと説得する清心の冷ややかさが不足しており、中途半端になっている。この場では、女性の過度な愛情に飲まれていく僧の身勝手さをも見せておかなければ、第三場「百本杭川下の場」での求女殺しと、悪党の目覚めへとつながらない。
時蔵はさすがの貫禄で、そのときの愛情にすがって生きる廓の女の哀しさで全体を通す。とくに第二場、「白魚船の場」での混乱がよい。なだめる左團次の白蓮、亀三郎の船頭三次も手堅い。第三場の幕切れ、白蓮に釣れられて上手から登場する十六夜がいい。そののち、「だんまり」となって、清心が花道七三に行って絵面に決まる幕切れは黙阿弥ならではの頽廃した風情が出た。
少し戻るが、菊之助の清心が「しかしまてよ」と現世の欲望に目覚めるときの目のぎらつき。先月明治座で『女殺油地獄』で親しい姉のようなお吉を殺した与兵衛の残響が感じられた。
切りはお楽しみ。吉右衛門の五右衛門と菊五郎の『楼門五三桐』。芸容の大きさはふたりとも申し分なく、値千金の一刻一刻を愉しんだ。五右衛門に打ちかかる久吉の臣、右忠太が又五郎、左忠太が錦之助という豪華版である。二十六日まで。