2020年12月14日月曜日
【劇評177】三島的ではないが、血の通った加藤拓也作・演出の『真夏の死』。
三島由紀夫については、深い思い入れがある。
もちろん私は小説家としての三島を『花盛りの森』から読み始めた。劇作家としては、なにがもっとも先行していたかは難しいが、おそらくは『サド侯爵夫人』か「近代能楽集」のなかに納められた一幕物だったろう。
今回、三島由紀夫ボツボ五十周年企画として『MISHIMA2020』が、日生劇場で上演された。何分、上演期間が限られているので、『憂国』と『橋づくし』は、見逃した。
今回は『真夏の死』について書く。
私は『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社 平成二年)の上下巻を愛用している。『真夏の死』は、百枚の中編ともいうべき小説であり、三島によって戯曲化はされていない。作・演出の加藤拓也は、この荘重な形式によって血液を失った蒼白の物語に、血を通わせた。
三人の子供と避暑に来ていた朝子(中村ゆり)は、海辺での事件に巻き込まれる。義理の妹に預けていた子供のうち、ひとりを残し、ふたりと妹は、溺死してしまった。朝子が傷心のうちに駆けつけた夫勝(平原テツ)を迎える。季節が過ぎ、夫婦がいかに、日常を取り戻そうとし、いかに、苦悶していくかが描かれている。
加藤の翻案は、三島の世界観から自由である。
三島が、小説の叙述の順序について、こだわりぬいているのに対して、なによりもまず、幼い子供を亡くしてしまった若い夫婦の心情をすくいあげようとする。
三島がおそらくはチェーホフの『桜の園』を意識していた物語の動力、ドライブモーターといってもいいが、その有効性を信じている。
世の中には、子を亡くした母ほどの根源的な悲劇をかかえた存在はいない。それは、令和の現在も変わらない。
形式よりは、血と肉と涙が重要なのだと、三島の世界観に異議申し立てをしている。
この舞台を支えるのは、音響や装置を駆使した加藤の演出ばかりではない。中村の自らを突き放した自我のありよう。迷いの中で、ついには結論を見いだせず、そのまま再び、事件のあった海岸へ導かれていく弱さが、よく描き出されている。
また、夫の平原もすぐれている。
そこには、家族に、いや家に何が失われてしまったのかを突き詰めることさえできずに、関係の修復だけを性急に急いでいる夫がいた。自らの考えを肯定できない人間の苦みが、平原によってよく表現されていた。
三島的ではないが、きわめて加藤的な佳品となった。