2020年12月14日月曜日

【劇評178】三島由紀夫の情熱と冷血。麻実れいの『班女』をめぐって。

 冷ややかな情熱という言葉がある。  もちろん形容矛盾ではあるが、どうもある階級の人々には、情熱のなかに、度しがたいばかりの冷血が潜んでいるようで、三島文学の主題は、この情熱と冷血をいかに作品に共存させるかに腐心していた。  もっとも、小説よりも戯曲が有利なのは、この情熱と冷血を体現する俳優を配役すれば、おおよその仕事が済む。   それは、少し乱暴に言いかえれば、様式的な演技に終始しつつも、ほの暗い情熱の炎を隠している役者。あるいは、情熱的であることは、観客にとって空疎に受け止められる不思議を会得している役者ともいえるだろう。  三島由紀夫作、熊林弘高演出の『班女』は、このような三島と俳優の二重性を残酷なまでに映し出している。  冒頭から絵描きの実子(麻実れい)にオーケストラピットで、新聞を読ませている。駅頭で恋人を待つ花子(橋本愛)の記事がのった新聞である。はじめの実子と花子のやりとりは不実であり、花の虚を現している。  のちにかつて花子を捨てた吉雄(中村蒼)が上手袖から登場するが、宝塚でいえば銀橋、オーケストラピット前面にある通路を主なアクティングスペースとする。  また、この戯曲には、「班女の扇」が、棒との実子の台詞に登場する。 「あるところで知り合った男が、又会う日のしるしに扇を交換した。今狂女の抱えているのは、夕顔を野花を書いた男の扇、不実な男が持っているのは、夕顔の花をえがいた彼女の扇。男はいつかな現れず、待ちこがれた末に狂ったのだという」とある。  演出家は、観客の想像力を信じていないのだろう。扇の現物を舞台奥に映像で映し出すことさえしてしまう。  また、俳優が情熱的に振る舞おうとすればするほど、そこには、冷ややかな心が宙づりになり、観客は客席に置き去りにされてしまう。  私はこれまで数々のすぐれた舞台を積み上げてきた麻実れいの技藝に満足した。ただし、それは、彼女が遠い世界の住人であって、この世には棲息していないと語っていた。その意味で、麻実は永遠の煙草拾いの小野小町であり、三条御息所なのであろう。  花子はまさしく美しいがゆえに暴虐を尽くす人形であった。橋本の暗い眼差しをおもしろく思った。吉雄は、きまぐれな冷酷さが必要である。中村は優しい才子に見えてしまっていた。  すなわち、この『班女』は、あまりにも半時代で、三島由紀夫に忠実である。  そこには、感動はなく、形式に対する憧憬がある。その不毛さこそが三島なのだと語りかけている。これが様式の不毛を訴えたい演出家の確信なのか、それとも三島とともに狂いたいという情熱的な願いなのかは、私にはわからない。