2020年12月14日月曜日

【劇評176】緒川たまきのコケットリーと高田聖子の胆力。ケラリーノ・サンドロヴィッチのコメディを観て。

 久し振りにコロナウイルスの脅威を感じることなく舞台に接した。少なくとも、休憩がはさまるまでは、舞台に引き込まれて現実を忘れた。  ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出の『ケムリ研究室 no1 ベイジルタウンの女神』が、世田谷パブリックシアターで上演されていた。上演期間のほとんどは、客席を半減しての上演だし、劇場入口での検温や手洗い、半券の処理も他の劇場と変わらない。  それにも、かかわらず、劇がはじまったとたんに、私たちは、この架空のベイジルタウンに飛んで、乞食たちの楽園へと遊ぶことになる。  こうしたファンタジーが可能になったのは、KERAの劇作は、いい意味で荒唐無稽であることを怖れていないからだろう。  荒れ果てた地区を再開発するために、そのプロジェクトの責任者、女社長のマーガレット・ロイド(緒川たまき)は、一月の間、身分や資産を持たずにタウンで暮らす。そのきっかけとなったのは、ライバルの女社長タチアナ・グリーンハム(高田聖子)との賭けによるものだった。  マーガレットは、この街で、王様と呼ばれる男(仲村トオル)とその妹ハム(水野美紀)と一歩一歩、歩み寄り、理解しあうようになっていく。  奇妙な夢想のなかに生るドクター(温水洋一)やサーカス(犬山イヌコ)は、いかにもケラリーノ・サンドロヴィッチの架空の街の住人らしく、楽しく、悲しく、たくましく生きている。その意味で、この物語は、貴種流離譚であり、成長物語でもある。  この物語の類型を踏襲した舞台が愉快に思えたのは、緒川たまきの浮遊した独特の個性によるものだろう。  どんなお伽噺も彼女のコケットリーが説得力を持たせている。対になる高田聖子もまた、独特の現実感があって、かつてはお嬢様と小間使いだったふたりの複雑な因縁を蘇らせていく。このふたりだけの秘密が掘り起こされるために、すべての物語はある。  多人数の群像劇であるために、長時間になるのは、いたしかたない。  しかし、ここでまた、コロナの現実が私たちを襲ってくる。休憩なしの二時間半くらいが、夢想に溺れて、苛酷な今を忘れるぎりぎりの時間なのではないか。  時間が、私たちを、現実に引き戻そうと強大な力を振るっていた。