2020年12月14日月曜日
【劇評175】現世の人の身の背後に、亡霊が。玉三郎の『口上 鷺娘』にこぼれる悲しみ。
一九八六年にアンドルー・ロイド・ウェバーによるミュージカル『オペラ座の怪人』が誕生した。ガストン・ルルーの小説を原作とした舞台は、世界を席巻した。才人、加納幸和は二○○一年に福島三郎との共同台本で、『かぶき座の怪人』という自由な翻案を作り上げたのを思い出す。
この九月、第四部に用意されていたのは、映像×舞踊 特別公演と副題がついた『口上 鷺娘』である。
襲名でも追善でもないから、「口上」は地方巡業でよく行われるようなご当地での挨拶と思っていた。
この予想は見事に裏切られた。現在の第五期歌舞伎座の奈落と迫り上がりの機構を案内するものであった。
玉三郎には、篠山紀信の写真を得た『完全保存版 ザ歌舞伎座』がある。
二○〇一年に解体された旧歌舞伎座を隅々まで案内した写真集である。
香港の九龍城に似ているとまでいわれた旧歌舞伎座の迷宮を、歌舞伎役者たちがいかに愛していたかを私たちは知っている。剥き出しになった配管や配線、いつだれが置き忘れたともわからない荷が廊下に積まれていた。
今回、玉三郎が案内するのは、徹底して合理化され、コンピュータ制御が行われた舞台機構の現在である。
一度機会に恵まれて奈落を案内されたことがあるが、まるでモダンな工場、実験室を見るようだった。
今回のリアルタイム映像は、梅ゼリやスッポン、鳥屋に玉三郎自身がいる。
衣裳を着けた役者がセリに乗っている姿は圧巻であった。いかに奈落がカミオカンデのような異次元の風景に変わっても、歌舞伎座のどこかに怪人が住んでいるのだと、改めて信じさせてくれた。
玉三郎は、歌舞伎座という存在自体が、スペクタクルであり、その蠱惑の根源であると知り尽くしている。
さて、『鷺娘』であるが、五千回踊った演目だけに、この歌舞伎舞踊家にとって、もっとも大切な舞踊劇だとよくわかった。
すでにささよなら公演で本人によって封じられているから、舞踊そのままではない。映像と交錯している。
地方も、さよなら公演のときに収録した音が使われ、現実に玉三郎が踊るときも、この音に乗っている。
簡易版筋書の連名は二○○九年一月に舞台にのった演奏家たちの名前である。
現実と映像が交錯する『鷺娘』を見ながら、玉三郎が現実と幻に強くひかれているとよくわかった。
たとえば近年、菊之助や七之助を相手に上演してきた『京鹿子娘二人道成寺』がある。
ここで役名が、白拍子花子、白拍子桜子とされている場合もあるが、実は、現世の人の身の背後に、亡霊が重なって生きている解釈であろう。
今回の『鷺娘』、二○○九年一月の玉三郎と二○二○年九月の玉三郎が、ひとつの舞台に立つ。ふたりは、同じ名前を持った人間でありながら、まったく違う存在でもある。
映像のなかにいる私は、あなたであって、私ではない。そんな痛切な告白であるように思われた。
時はとどまることなく、人の世は移りゆく。
その悲しみばかりがこぼれていた。