2020年12月14日月曜日

【劇評174】幸四郎の冷酷と猿之助の妄執。怨嗟にあふれる世界を撃つ舞踊劇「かさね」

 四部制は、間の消毒の時間を考えると、ひとつの部の上演時間に制約がある。また、半通しのような上演形態もむずかしいだろうと思う。  観客の満足度を考えると、ドラマ性のある舞踊劇で、できれば道具の仕込みに手間がかからない狂言がふさわしいという結論に達する。  九月も舞踊劇が『かさね』、『鷺娘』と二本舞踊劇がでたのは、こうした興行の上の都合もあってのことだろう。先月の猿之助、七之助による『吉野山』は、万事が派手で、観客の拍手を集めていた。  さて、第三部は、幸四郎の与右衛門、猿之助のかさねによる『色彩間苅豆』「かさね」。  四世鶴屋南北による怪異な舞踊劇だが、幸四郎、猿之助、ともに仁といい、柄といいこの役にふさわしく満足感がある。  与右衛門は、『東海道四谷怪談』の伊右衛門とも通じる色悪で、幸四郎はこうした冷酷さで女を狂わせる男を勤めて成果をあげてきた。  今回も、左目が潰れ、顔が爛れてしまったかさねを見て、気持ちを寄せるどころか、鏡を突きつける件りにためらいがない。人の心の怖ろしさ、身勝手さが迫ってくる。  猿之助は、人生に自棄になった女を演じて生彩がある。かさねはここで、もう、自分が愛されなくなったと知っている。それにもかかわらず、与右衛門に対する妄執を捨てきれない。その執着心の強さと背負った業のあわれが、特に後半、観客の肝を冷やした。  「因果」は、人の心の取り憑いて、次の行動、次の悲劇を生んでいく。  かつて親が犯した罪が、ふたりを襲う。かさねは怨霊となって与右衛門を逃しはしない。  いったん花道から引っ込んだ与右衛門を、かさねは連理引きで呼び戻す。このときのあさましいふたりの姿に、怨嗟にあふれた世界を生きる私たちは何を見るのだろうか。  捕手は、隼人と鷹之資。神妙の勤めている。この世代に少しでも勉強の機会をと願う。  清元の浄瑠璃は、延寿太夫。三味線は菊輔。