2020年4月14日火曜日

【劇評166】人間が世界を冷ややかに見詰めている。『天保一二年のシェイクスピア』

趣向と綯い交ぜの戯曲である。

 井上ひさしの『天保一二年のシェイクスピア』はシェイクスピアの全作品を、『天保水滸伝』の世界に落とし込んだ芝居である。

 元の講談に特に説明はいらないだろう。やくざの一家が対立する単純な筋に、リア王やロミオとジュリエットやリチャード三世やオセロの人間関係を、井上は超絶技巧のような手さばきで織り込んでいった。

 そのため、蜷川幸雄やいのうえひでのりの演出で、この作品を観てきたが、どうしても、シェイクスピアのどの作品が織り込まれているかに注意がいってしまった。置き換えの手さばきばかりが気になり、舞台を愉しむには至らなかったというのが、正直なところだ。

 今回、「豪華絢爛 祝祭音楽劇」と惹句がついた。

 作曲は宮川彬良、演出は藤田俊太郎。
 音楽劇というよりは、限りなくミュージカルに近い楽曲と演出である。

 藤田が蜷川幸雄によく学んだステージングは、冒頭から手際がいい。
 装置(松井るみ)を大胆に動かし、奥行きや高さを生かして群衆を展開する。
 人間の生活を象徴的に見せ、しかも着物でのダンスをふんだんに織り込む。
 ショーアップされた和物のミュージカルとして完成度が高い舞台となった。

 はじめに趣向と綯い交ぜといったが、代表的な書き手に四世鶴屋南北がいる。この名手の作品には、大きな意味での主題が根底にある。南北の『東海道四谷怪談』でいえば、赤穂の禄を奪われた武士とその家族が、いかに江戸の底辺に生きるか。その陰惨きわまりない人間の生き方が浮かび上がる。
金と性への欲望に翻弄される人間

 井上ひさしの『天保一二年のシェイクスピア』の主題は、金と性への欲望に翻弄される人間の果てしないエネルギーだろう。

 食うや食わずの抱え百姓からのし上がるためには、裏切りも計略もためらわない。主にリチャード三世を重ねあわせた、佐渡の三世次(高橋一生)、ハムレットを模した、きじるしの王次(浦井健治)が、いかに負の記号を活力としていくかが焦点となる。
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 豪華絢爛な音楽劇でありつつ、シェイクスピアが持つ世界観はそこなわれていない。
 人間が世界を冷ややかに見詰めている。

 こうした舞台が生まれた理由のひとつには、蜷川演出でも隊長役を勤めた木場勝己の存在があるだろう。
 木場は、冒頭、幕外の口上で登場した後も、蜷川演出の『日の浦姫物語』や『海辺のカフカ』で見せたように、舞台上を浮遊する。
漂うだけではなく、人々の営みを見詰めている。
 井上の戯曲では、百姓一揆の隊長という位置づけだと思うが、今回の演出では、登場人物たちからは見えない観察者としての役割を負っている。私はときに、木場は、井上ひさしやシェイクスピアの分身にも見えた。

 悪代官やヤクザに搾取され、生きることが精一杯の人々の怒りが、最後に炸裂するところに井上の本来の意図があったとすれば、木場は三重の役割を負っている。
 観察者であり、劇作家の分身でもあり、隊長でもある。この分裂が統合されずに、舞台上にあるのは意図的な演出だろうか。それとも、木場が過去のインタビューで語っているように、木場自身の選択なのだろうか。
理屈は無用か。役者の輝き。

 ただ、こうした理屈は、無用だとも考えられる。
 高橋のグロテスクなまでの悪、浦井の甘くねっとりとした色気。伝法なお光としとやかなおさちを演じ分けた唯月ふうか。いずれも俳優の根源にある魅力が引き出されている。人間の欲望が、人生を狂わせると語りかけている。
  そして、十兵衛は辻萬長。さすがに舞台を圧する。

 リア王の姉ふたりを濃厚に演じた樹里咲穂と土井ケイト。そして、桶屋の佐吉を愛するかゆえに、悲劇を生み出す母の梅沢昌代がすぐれている。シェイクスピアや井上の女性に対する愛憎がよく出ている。 梅沢は、『マクベス』の魔女を重ね合わせた老婆としても登場する。

 木場、梅沢のようにすぐれた語り手があってこそ、この軽薄にして、凄絶な戯曲が生きてくる。
疑問点もある。

 もちろん疑問点がないわけではない。
 高橋の三世次が、おさちに鏡を突きつけられる衝撃的な場面。やがて、階段に脚を上、頭を下に仰向けになる演出は、十字架にかけられたキリストの反転を思わせて面白い。
 けれども、リチャード三世は、アンを決して愛してはならない。従って、三世次がおさちに真摯な愛を捧げているかにみえるのは疑問だ。
 あくまで悪党を貫いてこそ、そのあとの馬(ここでは天馬)を求める件りに至って、絶望と孤独が舞台上に生まれる。
 
 勧善懲悪になってはならない。悪党の一代記、ピカレスクロマンとなってこそ感動が生まれる。

【劇評165】仁左衛門にとって大切な「道明寺」

歌舞伎座、昼の部は、『菅原伝授手習鑑』の半通し。

「加茂堤」「筆法伝授」「道明寺」と、丸本歌舞伎の真髄というべき演目。三月の『新薄雪物語』とともに、どんなことがあろうとも、間を空けすぎずに舞台にあげなければいけない演目となる。

とくにこの半通しは、松嶋屋、片岡仁左衛門家にとっては、もっとも重要な狂言。
特に「筆法伝授」「道明寺」は、十三世による神品というべき舞台が伝説として残っている。
今回の上演では、仁左衛門、秀太郎、孝太郎、千之助が渾身の舞台を勤めている。藝の継承がこうして世代から世代へ伝えられていく過程を観るのは、歌舞伎の醍醐味なのだなあとしみじみ思った。

まずは「加茂堤」。のどかな土手。
斎世親王(米吉)と刈屋姫(千之助)の逢瀬が一転して大きな悲劇へと結びついてく。それは桜丸(勘九郎)と女房八重(孝太郎)の流転とも繋がっている。

米吉、千之助の旬の美しさ。勘九郎、孝太郎のおっとりした気分が、一転する。人生はこんなふうに人間を弄ぶのだと実感する。

続いて「筆法伝授」。この場は、秀太郎の園生の前が迫り来る運命にひっしで向かい合う姿を見せる。
仁左衛門の菅丞相は、あくまで沈痛。武部源蔵(梅玉)と戸浪(時蔵)が、前場の斎世親王と刈屋姫と二重写しになり、失われた関係は、二度と取り戻せないと世の残酷を告げている。
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『仮名手本忠臣蔵』の判官切腹の場と並んで、ひたすら沈痛な一幕。孝太郎の立田の前が、夫の宿禰太郎(彌十郎)とその父土師兵衛(歌六)の悪巧みに抗して、はかなく死んでいく。忠義に生る女性である。孝太郎にとって、現在できるかぎりの藝を見せている。

困難な伯母覚寿は玉三郎。さすがに品格高く、菅丞相に対する尊敬と遠慮が見えてくる。
ただし老けている気配はなく、あくまで美しい覚寿であった。

輝国はこの幕のなかで、一点の曇りもあってはならず、困難な役。今回は芝翫が勤めている。

さて、仁左衛門の菅丞相。舞台姿を観ていると、この幕が木像を使った伝説をめぐる物語だとよくわかる。
単なる型を見せるのではない。
右大臣が讒訴によって都から流され、時代を経て学問の神となった。その縁起が語り起こされているとよくわかった。
役者もまた、追善によって伝説となり、歴史のなかで像を結ぶ。

二十五日まで。 

【劇評164】菊五郎の左官長兵衛、至芸。

今月の歌舞伎座は、十三世片岡仁左衛門の二十七回忌。故人ゆかりの狂言が、我當、秀太郎、仁左衛門三人の子息によって演じられる。
 私は一度だけ、十三世の素顔に接したことがある。
 といっても、南座の楽屋口。昼の部が終わって、人を待っていると、十三世仁左衛門がひとりぽつねんと立っていた。ベージュのステンカラーコートがよく似合って、まるで京都大学の学者さんのような佇まいだった。 一九九二年の二月。資料を調べてみると、十三世は、賑やかな『江戸絵両国八景(荒川佐吉)』で、相模屋政五郎を勤めている。佐吉は、孝夫(現・仁左衛門)第九の辰五郎は、十八世勘三郎(当時・勘九郎)の配役である。底冷えのする京都が思い出される。
 
 さて、二月大歌舞伎夜の部の追善狂言は日本。
 まずは、我當による『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』が出た。
 この芝居は、十三世仁左衛門から受け継いでいる。加藤清正の忠誠を描いた短い幕だが、大船の上に座して、我當はほとんど動かない。義太夫は泉太夫。新之介、萬太郎、片岡亀蔵、魁春らで運ばれていく。我當は短い台詞を振り絞るように語る。生きていること、舞台にいることがひとつになる。歌舞伎俳優にとっては、舞台上にいること、それが芝居になると思わせる。それがまた、悲運の武将、加藤清正の無念と重なり合う。
 珍奇を追うだけが歌舞伎ではない。命のゆらめきを観た。
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 続いて玉三郎の天女、勘九郎の伯竜による『羽衣』。気品と情調にあふれた舞台だが、勘九郎の神妙な伯竜が舞台を支えている。遠くを見る目で踊りにめりはりを付けるのは、父、勘三郎譲りで、この目線による描写と色気が中村屋の人気の源泉なのだろう。

 夜の部芝居としての実質は、『人情噺文七元結』が十二分に担っている。菊五郎の左官長兵衛は、何度も観てきた。円朝による人情噺で原作も脚色もよくできている。泣かせようとすれば、いくらでも出来る演目だが、菊五郎は自在な境地で、まったく芝居をあてこまない。なのに、心が動く。心が動かされる。世話物の芝居はこうでなくてはいけない。

 序幕の長兵衛内では、雀右衛門のお兼とのやりとりで嫌味なく観客を笑わせる。團蔵の藤助もほどがよい。雀右衛門にはめずらしい裏店の女将さんだが、この人の芝居の巧さが生きている。

 角海老内は、襲名したばかりの長兵衛娘小久を莟玉が勤める。純情にして、ひたむき。儲かる訳だが、この役も菊五郎に合わせてくどくはしていない。この場で芝居を回していくのは、角海老女房に回った時蔵。修羅場をくぐってきた吉原の女将の風格があり、加えて色気があふれる。

 二幕目大川端の場は、菊五郎と五十両の金を見失って茫然自失となった梅枝の文七のやりとりに実がある。梅枝はひたむきな若者を演じて、ぐいぐいと押してくる。
なるほど、この必死さならば、死なせてはならないと大切なお金をやってしまうのも道理と思わせる。
 ここでも、菊五郎がすぐれた境地に遊ぶ。金をやろうか、それともやるまいか。単に江戸っ子の粋ではない。追い詰められたのは、文七だけではなく、この若者にかかわってしまった長兵衛なのだとよくわかった。

 大団円は、片岡亀蔵の家主、左團次の和泉屋清兵衛、梅玉の鳶頭がいい。三者の滋味があって、「めでたしめでたし」と、観客をもてなしている。

 十三世の忠兵衛に梅川をたびたび勤めてきた秀太郎が、踊りの『道行故郷の初雪』で、「封印切」のあとに続く「新口村」を見せる。心中物のなかには、冷え切った冬のさなかにさすらう男女の哀切がある。

 秀太郎の梅川、梅玉の忠兵衛。老いの花というには、若々しさが残り、けれど、若い世代ではかもしだせない諦念もある。松緑が万才の松太夫として間に入る。明るい気分をかきたてるが、かえって未来が立たれたふたりの心持ちが浮かび上がった。
 二十六日まで。

【劇評163】欲望と依存。森田剛の『フォーチュン』

だれにでも好みはある。
 傾きのある翻訳劇に惹かれてしまうのは、かねてから気がついていた。  傾きというと、曖昧な表現だけれど、主流派ではないと思ってもらってもかまわない。
 過激で、悪ふざけをしながらも、真実に突き刺さっている舞台に惹かれてしまう。

 劇作家サイモン・スティーブンスの新作『Fortune(フォーチュン)』(広田敦郎翻訳 ショーン・ホームズ演出 ポール・ウィルス美術・衣裳)は、ファウストの物語を下敷きにしている。
 つまりは、自らの欲望のために悪魔に魂を売り渡してしまった男の悲劇である。

 劇作家はこの物語を、映画監督という芸術家に設定している。
 だれもが知っているように、実績のある映画監督は、少なくとも自分の作品制作のなかで、絶対的な権力者である。
 権力があれば、当然、孤独が生まれる。日常を支えてくれるスタッフも全面的には信頼出来ない。

 森田剛が演じる映画監督フォーチュン・ジョージは、若いプロデューサーのマギー(吉岡里帆)を事務所に迎える。
 極めて優秀だが、麻薬の使用歴があると本人も認める。フォーチュンは彼女に一目惚れするが、相思相愛の夫がいる。新しい映画の企画をすすめるうちに、フォーチュンはロンドンの新しいタワーにあるシャンパンバーで、ネットで知り合ったルーシー(田畑智子)と会う。彼はやがて、悪魔の化身のルーシーと奇妙な契約を結んでしまう。

 極めて表面的にいえば、フォーチュンがルーシーという麻薬の売人に出合い、コカインなどに手を出た。それ以降は麻薬がもたらした幻覚で、犯罪を犯し、ついには収監されて破滅した物語とも読める。
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 ただ、こうした皮相的な読みを超えるだけのエネルギーがこの作品にはある。それは時空を超えた人間の宿命へと手を伸ばしているからだろう。

 欲望と依存、良心と倫理。
 古典的な主題を扱い、巧みに現代の消費社会の物語に置き換えた戯曲は、常に不安をかかえこんだ人間を描いている。

 演出のジョーン・ホームズは、この世界をまやかしではあるが、蠱惑的な魅力のある場所として現実化する。
言葉と言葉のやりとりが、人間の関係を微妙に変えていく。この基本にあくまで忠実だ。

しかも、スタイリッシュで眩い意匠を散りばめて、観客を惹きつける。この作業の中心になるのは、美術・衣裳のポール・ウィルスである。
 舞台前面の半分をスライドドアとし、左右の袖には暗幕を置かずに照明機材をさらしてしまう。ここには広大ではあるけれど、中心を欠いて、人間の不安をかき立てる空虚感が棲みついている。

 小野寺修二のステージング、かみむら周平の音楽、佐藤啓の照明、佐藤裕子のヘアメイクが偽物のロンドンを幻のように舞台上に出現させている。

 森田剛は、ふるえるような魂をかかえこんでいるアーティストをてらいなく演じている。この純粋な魂は、悪魔がぜひともほしがるだろうと思われた。

  吉岡里帆は、ストレートな役柄として登場するが、やがて彼女は大きな分裂を抱え込んでいるとわかる。ハリウッドで映画の出資者を応接するあたりから、がぜんおもしろくなる。

  田畑智子は絶対的な悪にはなりきれない悪魔という複雑な役柄を演じていてすぐれている。
 私たちの現実社会にも、その人のためには決してならないと思いつつも、不動産や車を長期ローンで売りつける営業があふれていると思わせる。

 さらにフォーチュンの母、キャサリンを演じた根岸季衣が出色である。自分一人の手で息子を育てた強さと暖かさがあるから、人間はだれの愛を信じるべきかという問いが投げかけられた。

 この作品は世界初演である。
 英国のすぐれた劇作家の初演が、日本で行われた。サイモン・マクバーニーの『春琴』がその達成として思い浮かぶが、『春琴』はあくまで谷崎潤一郎の原作があってのプロダクションだった。
 キリスト教社会とその価値観が浸透していない日本で、この戯曲が制作されたことの意味は重い。松本、大阪、北九州を巡演。3月1日まで。


【劇評162】『メアリー・スチュアート』と宮廷の権力

国王ではない。女王の物語である。

 フリードリッヒ・シラー作の『メアリー・スチュアート』(森新太郎演出)は、宮廷の権力がいかに移ろいやすく、儚いものかを描いている。

 スティーブン・スペンダーによる上演台本は、メアリー・スチュアート(長谷川京子)とエリザベス一世(シルビア・グラブ)を軸にすえて、彼女たちをめぐる宮廷の貴族たちの忠誠と変節を嘲笑している。

 ハンサムなレスター伯は、ふたりの愛を弄んでいるかにみえて、決して何も手に入れることが出来ない。
 陰謀家のバーリー(山崎一)は、エリザベス女王の忠臣だが、本当の信頼を得られない。
 サー・ポーレット(山本亨)は、メアリーを守り通そうとするが果たせない。
 タルボット伯(藤木孝)は、メアリーに好意的だが、宮廷人としての知力に欠けている。
 サー・モーティマー(三浦涼介)は、メアリーに愛を捧げ、軟禁状態から救い出そうとするが、自殺に追い込まれる。

 男たちは、自分の思うがままに、ふたりの女王に近づくが、その忠誠も野望も満たされない。
 ならば権力の中枢にいるふたりの女王はどうか。
 彼女たちも自らの権威の保持に追われ、プライドを守ることに汲々としている。権力に座についたとたんに、失うことが怖くなる。権力は、ひとりの人間を孤独に突き落とす。
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 こうした普遍的な権力論が、この作品では展開されている。
 長谷川は、圧倒的な美しさで、メアリーの持つカリスマを描く。
 グラブは、顔を白塗りにして表情を殺し、孤独の深さを感じさせる。

 山崎、山本、藤木、三浦に加えて、黒田大輔は青山辰蔵、池下重太も、それぞれの個性を際立たせる。女王の対立ではなく、権力をめぐる群像劇としてすぐれている。

 ではメアリーとエリザベスの違いは何か。

 メアリーには絶対的な信頼で結ばれた乳母のハンナ・ケネディ(鷲尾真知子)がいた。鷲尾はメアリーの擁護者であり、全体の観察者でもある。その暖かさと客観性をあわせもった人格を造形したところで、この作品はかすかな救いを得た。
 
 まっとうな台詞劇だが、第二幕からは、権謀術数の行方から目が離せない。堀尾幸男の装置が立体感のある城のたたずまいを構成してすぐれている。照明の佐藤啓が重厚な場を描いていた。

【劇評161】白鸚の芸境

まさか「桜を見る会」の諷刺なのか?
 見どころにあふれるミドリの公演で、ゆったりと観た。

 朝いちばんの朝幕は、『醍醐の花見』(中内蝶二作 今井豊茂台本)。幕外のやりとりが終わると幕を振り落とす。
 季節は違えど、桜の花は、歌舞伎の美の原点にある。

 梅玉の秀吉、福助の淀君、勘九郞の三成、七之助の北の方、芝翫の智仁親王、魁春の北政所が、盛大に花見を愉しむおおらかなな一幕。昨今世情を騒がせている権力者の「桜をみる会」を、まさか下敷きにはしていないだろうと思うが、諷刺ならばまた、見方が変わってくる。中村の姓を名乗る役者が集まって、新年を寿ぐ。

 凍える悲しみ
 一転して、雪のなかに凍えるような悲しみがこもる『奥州安達原 袖萩祭文』。
 なんといっても雀右衛門の袖萩が、三味線を弾きながら、こころのうちを語る件りが切々と胸に迫る。

 父直方(東蔵)とその妻浜夕(笑三郎)とのやりとりも緊迫感がある。東蔵は、娘に思いがけずにあえた嬉しさをひたすらに隠す思い入れがすぐれている。芝翫の貞任、勘九郎の宗任と立役が大きく、単に勘当された親子の話に終わらない。勘九郎の男っぷりがよく、懐剣を持って迫る件りに生彩がある。葵太夫の浄瑠璃、寿治郎の三味線。
 
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大曲の舞踊劇に軽み 
 正月だからか。吉右衛門は時代物の大役ではなく、舞踊劇を選んだ。『新歌舞伎十八番の内 素襖落』。
 大盃を重ねて、頂き物の素襖を落とす。大名(又五郎)、鈍太郎(種之助)になぶられる他愛のない筋だが、吉右衛門が出て、雀右衛門が姫御寮につきあうと、がぜん舞台が立派になる。
 吉右衛門はもとより巧い役者だが、技巧本意に見えず、軽みとして観客に感じられるところが見事。
 眼目の件り。那須の与一の合戦を軍物語として語るが、重くもたれない。 弓を構え、矢をいるときの身体に見惚れた。
 又五郎の受けの芝居が、吉右衛門を支えている。

白鸚の芸境
 さて、白鸚の『河内山』だが、また一歩、いや二歩、芸境が進んだ。
 今回は、上州屋で娘を救い出す仕事を請け負う場を欠く。「広間」「書院」「玄関先」だけを通すと、河内山宗俊を俗にまみれた悪党ではなく、肚の座った大悪党とするやり方が成立する。

 従って、「玄関先」で北村大膳(錦吾)を馬鹿めとののしる爽快さは観客サービスとなり、「書院」での対決が眼目になる。大名の松江出雲守(芝翫)と御数寄屋坊主。立場は違えど、官僚同士の肚のさぐりあい、意地のはりあいが芝居になっている。

 白鸚は、観客に噛んで含めるようなやり方をしない。説明調になるのを徹底してさけて、あくまで内輪に、肚の芝居に徹した。
 観客と着実に気持ちがかよいあっている。そんな安心感が見て取れた。

 白鸚の芝居を受ける芝翫も大名の風格がある。酒乱ではなく、色好みな大名の色気まで漂う。
 家老の小左衛門に歌六。宮崎数馬は高麗蔵。二十六日まで。

【劇評160】菊五郎劇団の正月

邪気のない愉しさ

 菊五郎劇団の正月は、邪気のない愉しさにあふれています。

 国立劇場は、妙に繭玉が似合う劇場でもあります。樽酒が積まれた正面玄関を入ると、おめでたい気分になります。戦争なんぞにならず、楽しく暮らせればいいのにと、切ない願いで一杯になります。

 今年の復活狂言は、『菊一座令和仇討(きくいちざれいわのあだうち)』と題されています。四世南北作の『御国入曾我中村』を原作としています。 復活といっても、かつての上演台本そのままを上演するのではありません。大胆な改訂を加えて、しかも、新たに場を創作して付け加えるのが通例になっています。
 国立劇場には、文芸研究会という組織があって、そのメンバーがこの書き替えの作業(補綴といいます)に毎回、心を砕いています。
 
 さて、今回の『菊一座令和仇討』は、現在の観客の好みに合わせて、とても簡潔にまとまった台本になりました。

 良い点をいくつかあげます。
両花道の活用 

南北の原作は「権三と権八」とも言われます。権三に松緑、権八に菊之助を配役して、見えない力で交錯するふたりの人生を描写していきます。上手側にも仮花道を作りました。この両花道で、ふたりの入場、退場をダイナミックに見せて、宙乗りなどの派手なケレンによらず、スペクタクルな歌舞伎にまとめたのです。

 第二に、趣向を大切にする視点が一貫しています。
 南北の作は、綯い交ぜといわれる作劇法で知られています。そのため、それぞれの世界に標準とされる登場人物のキャラクターが頭にはいっていないとわかりにくいので、そのあたりを整理しています。

 今回の焦点は、現実の怪我が、劇に入り込んでいるところです。
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 さきにいった権三と権八が、負傷を追い、傷をなおすうちに、町医者閑心(菊五郎)の家に居候する。そこに、悪婆といわれる伝法な女三日月おせん(時蔵)夫婦とからみができる。やがて閑心は範頼という天下を狙う大悪党だとわかる。
 権三と権八のからみあう人生が、敵討という歌舞伎の定型に収まっていく。このあたりが見ていて楽しい。
 つまり、御家の宝物が失われたくだりと、敵とねらう悪党を追い詰める仇討このふたつのエンジンは、話のつじつまや合理性に優先しています。
 偶然が多すぎるとか考えるのは、禁句です。


 このごろ作られた新作歌舞伎は、どうしても私たちの現代的な考えにそまっていますが、こうした復活狂言は、古風です。
 このおっとりした世界が、国立劇場の丹精な大道具とあいまって、こせこせしない楽しみを生んでいます。
去年の怪我さえも、趣向とみる

 第三は、菊之助の怪我のからみです。
 今月の国立劇場に来たお客さんのほとんどは、去年の十二月、新橋演舞場で上演された『風の谷のナウシカ』で、菊之助が左手の肘を負傷したと知っているでしょう。

 今回の『菊一座令和仇討』は、時間的なことを考えると、負傷した時点ですでに第一稿は出来上がっていたでしょう。

 先に筋を書きましたが、菊之助の権八は、典型的な二枚目ですが、劇の途中から負傷している設定です。現実の怪我と劇の虚構がまぜこぜになっていく。
 今も菊之助は痛みを抑えて演じているのではないか。そんな想像を愉しみながら見るのも趣向となっています。

 白塗りの二枚目として登場した菊之助が、なぜか女性となって、吉原へ売られていくくだり。そして、宝物を手に入れると女形の演技を投げ出して男にもどるくだり。なかなか見どころが多い。
 
 近年の菊五郎劇団の正月復活狂言のなかでも、なかなかの佳品です。正月松の内が過ぎて、月半ばとなっても、おっとり江戸の芝居を愉しめるそんな舞台になりました。お薦めできる愉しさです。二十七日まで。

【劇評159】花組芝居の円熟『義経千本桜』

十九八七年の設立というから驚く。

 花組芝居が『義経千本桜』の通しを上演すると聞いて、急に観たくなった。

 序幕の「仙道御所」から始めて、知盛、権太、忠信のくだりをすべて網羅している。「北嵯峨」の件りまで含んでいる。これで休憩を含めて三時間以内に収めている。
 かといって駆け足だとは思わない。むしろ、脚本・演出の加納幸和が差し出した「歌舞伎の愉しさ」をどれだけ理解出来るか。知的なパズルを観に行ったような心持ちがした。

 短くはしている。してはいるけれども、原文を生半可に現代語にしたりはしない。竹田出雲、三好松洛、並木千柳の台詞を尊重する。

 そのため、歌舞伎を全く初めて見る観客には(イヤホンガイドがない分だけ)むずかしいかもしれない。
 けれど、ここには、歌舞伎の本質を愛するまっとうな精神がある。
 そして、歌舞伎を愉しんでほしいという強い願いがある。
 姿勢が正しいので、観客も背筋を正して観る。ドラマに入り込み、チャリでは笑う。
 素晴らしい仕事を長年続けてきたものだと頭が下がる。
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 『義経千本桜』は、源義経が主人公の芝居ではないとよく言われる。
 けれども、花組芝居による『義経千本桜』は、序の「仙洞御所」を出して、核心となる鼓の皮の表裏が兄頼朝、弟義経であると強調する。
 従って、この通し狂言の底流には、兄に疎まれた弟の悲しみがあると明らかになる。
 そう思いながら見ると、知盛、権太、忠信、それぞれの物語は、義経が見た幻であるように見えてくる。メタシアターのしつらえである。

 古川雅之の美術は、全幕通して使われる。
 見捨てられた廃屋のようなしつらえである。舞踊の大曲『将門』を思わせる。自分自身の物語を脳内に作りだし、それにすがりつかなければ、人間は生きられない。
 義経もまた、同様の人間だったと語っているかのようだ。

加納幸和は、「渡海屋・大物浦」のお柳実は典侍の局と「鮨屋」のお里の二役。どちらも円熟の域にある。
 芸境が上がったからといって、悪ふざけも止めていないのがまさしく歌舞伎である。

【劇評158】幸四郎の佳品『蝙蝠の安さん』

十二月は、新作歌舞伎の月になりました。

 歌舞伎座の「白雪姫」、演舞場の「ナウシカ」が大作だとすると、国立劇場の『蝙蝠の安さん』は、佳品です。
 私はあまのじゃくだからか、こんなさりげない舞台が気になります。なので、わずか五回の公演しかないのですが、三宅坂に行ってみました。

 まず、木村錦花の脚色という言葉にひかれました。
 『野田版 研辰の討たれ』も、錦花の小説を原作としていますが、大正、昭和の演劇界で活躍した人だけに、モダンでセンスがいい。
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 昭和九年(一九三四)に日本で初公開されましたが、ワールドプレミアのわずか半年後には歌舞伎座で上演されていた。その速度感がなんとも小気味がよいじゃありませんか。

 『蝙蝠の安さん』は、もとより、『与話情浮名横櫛』の「蝙蝠安、蝙蝠の安五郎」です。与三郎に悪事を教えたのはこの蝙蝠安。
お富の住む小粋な家にゆすりたかりに現れる小悪党です。
 与三郎とお富が、美男美女だとすると蝙蝠安はどうも冴えません。
 本来は上手い脇役が演じる役ですが、六代目菊五郎や初代吉右衛門が勤めた例もあるので、演じてみたい欲を誘うのでしょう。

 今回、幸四郎の安は、もとより祖父の初代吉右衛門を意識しているのでしょう。渋いこしらえで出ますが、当代の幸四郎は、少し外してチャリのある役に向いています。チャップリンと似ているかどうかは別として、幸四郎が舞台で遊んでいるのがよくわかります。

 たとえば、チャップリンの『街の灯』ではボクシングだった場面。
 蝙蝠の安さんは、眼病に苦しむ花売りのお花(新悟)のために、治療費を稼ごうと相撲の懸賞に挑みます。
 役付に勝ったら五両。ボクシングのポーズを入れているのも、ご愛敬。肌を見せても、それが愛嬌になっている。ひどいめにあっても、悲惨にならない。このあたりが幸四郎のよさだと思います。
 
 酔っては周囲に絡み、朝になると安を招いたことさえ忘れてしまう。裕福な旦那を演じる猿弥とのやりとりも軽快です。
 お花の母おさき(吉弥)のやさしさ。母娘に同情する大家の勘兵衛(友右衛門)と、チャップリン世話物を盛り立てていました。

 安易な希望を語れない世相を反映しているのでしょうか。

 幸四郎は、年の瀬にもかかわらず安易な大団円を用意しませんでした。お花は、きっと蝙蝠の安さんの熱い気持ちに気がついていたが、決して寄り添う相手ではないと思っていたような気さえしてきます。
 結末から、お花や安さんの明日を想像してみるのも、私たちの楽しみだと思います。

 二十日(金曜日)、二十四日(火曜日)、二十五日(水曜日)いずれも十九時から、国立劇場。