2020年4月14日火曜日

【劇評166】人間が世界を冷ややかに見詰めている。『天保一二年のシェイクスピア』

趣向と綯い交ぜの戯曲である。

 井上ひさしの『天保一二年のシェイクスピア』はシェイクスピアの全作品を、『天保水滸伝』の世界に落とし込んだ芝居である。

 元の講談に特に説明はいらないだろう。やくざの一家が対立する単純な筋に、リア王やロミオとジュリエットやリチャード三世やオセロの人間関係を、井上は超絶技巧のような手さばきで織り込んでいった。

 そのため、蜷川幸雄やいのうえひでのりの演出で、この作品を観てきたが、どうしても、シェイクスピアのどの作品が織り込まれているかに注意がいってしまった。置き換えの手さばきばかりが気になり、舞台を愉しむには至らなかったというのが、正直なところだ。

 今回、「豪華絢爛 祝祭音楽劇」と惹句がついた。

 作曲は宮川彬良、演出は藤田俊太郎。
 音楽劇というよりは、限りなくミュージカルに近い楽曲と演出である。

 藤田が蜷川幸雄によく学んだステージングは、冒頭から手際がいい。
 装置(松井るみ)を大胆に動かし、奥行きや高さを生かして群衆を展開する。
 人間の生活を象徴的に見せ、しかも着物でのダンスをふんだんに織り込む。
 ショーアップされた和物のミュージカルとして完成度が高い舞台となった。

 はじめに趣向と綯い交ぜといったが、代表的な書き手に四世鶴屋南北がいる。この名手の作品には、大きな意味での主題が根底にある。南北の『東海道四谷怪談』でいえば、赤穂の禄を奪われた武士とその家族が、いかに江戸の底辺に生きるか。その陰惨きわまりない人間の生き方が浮かび上がる。
金と性への欲望に翻弄される人間

 井上ひさしの『天保一二年のシェイクスピア』の主題は、金と性への欲望に翻弄される人間の果てしないエネルギーだろう。

 食うや食わずの抱え百姓からのし上がるためには、裏切りも計略もためらわない。主にリチャード三世を重ねあわせた、佐渡の三世次(高橋一生)、ハムレットを模した、きじるしの王次(浦井健治)が、いかに負の記号を活力としていくかが焦点となる。
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 豪華絢爛な音楽劇でありつつ、シェイクスピアが持つ世界観はそこなわれていない。
 人間が世界を冷ややかに見詰めている。

 こうした舞台が生まれた理由のひとつには、蜷川演出でも隊長役を勤めた木場勝己の存在があるだろう。
 木場は、冒頭、幕外の口上で登場した後も、蜷川演出の『日の浦姫物語』や『海辺のカフカ』で見せたように、舞台上を浮遊する。
漂うだけではなく、人々の営みを見詰めている。
 井上の戯曲では、百姓一揆の隊長という位置づけだと思うが、今回の演出では、登場人物たちからは見えない観察者としての役割を負っている。私はときに、木場は、井上ひさしやシェイクスピアの分身にも見えた。

 悪代官やヤクザに搾取され、生きることが精一杯の人々の怒りが、最後に炸裂するところに井上の本来の意図があったとすれば、木場は三重の役割を負っている。
 観察者であり、劇作家の分身でもあり、隊長でもある。この分裂が統合されずに、舞台上にあるのは意図的な演出だろうか。それとも、木場が過去のインタビューで語っているように、木場自身の選択なのだろうか。
理屈は無用か。役者の輝き。

 ただ、こうした理屈は、無用だとも考えられる。
 高橋のグロテスクなまでの悪、浦井の甘くねっとりとした色気。伝法なお光としとやかなおさちを演じ分けた唯月ふうか。いずれも俳優の根源にある魅力が引き出されている。人間の欲望が、人生を狂わせると語りかけている。
  そして、十兵衛は辻萬長。さすがに舞台を圧する。

 リア王の姉ふたりを濃厚に演じた樹里咲穂と土井ケイト。そして、桶屋の佐吉を愛するかゆえに、悲劇を生み出す母の梅沢昌代がすぐれている。シェイクスピアや井上の女性に対する愛憎がよく出ている。 梅沢は、『マクベス』の魔女を重ね合わせた老婆としても登場する。

 木場、梅沢のようにすぐれた語り手があってこそ、この軽薄にして、凄絶な戯曲が生きてくる。
疑問点もある。

 もちろん疑問点がないわけではない。
 高橋の三世次が、おさちに鏡を突きつけられる衝撃的な場面。やがて、階段に脚を上、頭を下に仰向けになる演出は、十字架にかけられたキリストの反転を思わせて面白い。
 けれども、リチャード三世は、アンを決して愛してはならない。従って、三世次がおさちに真摯な愛を捧げているかにみえるのは疑問だ。
 あくまで悪党を貫いてこそ、そのあとの馬(ここでは天馬)を求める件りに至って、絶望と孤独が舞台上に生まれる。
 
 勧善懲悪になってはならない。悪党の一代記、ピカレスクロマンとなってこそ感動が生まれる。