2020年4月14日火曜日

【劇評162】『メアリー・スチュアート』と宮廷の権力

国王ではない。女王の物語である。

 フリードリッヒ・シラー作の『メアリー・スチュアート』(森新太郎演出)は、宮廷の権力がいかに移ろいやすく、儚いものかを描いている。

 スティーブン・スペンダーによる上演台本は、メアリー・スチュアート(長谷川京子)とエリザベス一世(シルビア・グラブ)を軸にすえて、彼女たちをめぐる宮廷の貴族たちの忠誠と変節を嘲笑している。

 ハンサムなレスター伯は、ふたりの愛を弄んでいるかにみえて、決して何も手に入れることが出来ない。
 陰謀家のバーリー(山崎一)は、エリザベス女王の忠臣だが、本当の信頼を得られない。
 サー・ポーレット(山本亨)は、メアリーを守り通そうとするが果たせない。
 タルボット伯(藤木孝)は、メアリーに好意的だが、宮廷人としての知力に欠けている。
 サー・モーティマー(三浦涼介)は、メアリーに愛を捧げ、軟禁状態から救い出そうとするが、自殺に追い込まれる。

 男たちは、自分の思うがままに、ふたりの女王に近づくが、その忠誠も野望も満たされない。
 ならば権力の中枢にいるふたりの女王はどうか。
 彼女たちも自らの権威の保持に追われ、プライドを守ることに汲々としている。権力に座についたとたんに、失うことが怖くなる。権力は、ひとりの人間を孤独に突き落とす。
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 こうした普遍的な権力論が、この作品では展開されている。
 長谷川は、圧倒的な美しさで、メアリーの持つカリスマを描く。
 グラブは、顔を白塗りにして表情を殺し、孤独の深さを感じさせる。

 山崎、山本、藤木、三浦に加えて、黒田大輔は青山辰蔵、池下重太も、それぞれの個性を際立たせる。女王の対立ではなく、権力をめぐる群像劇としてすぐれている。

 ではメアリーとエリザベスの違いは何か。

 メアリーには絶対的な信頼で結ばれた乳母のハンナ・ケネディ(鷲尾真知子)がいた。鷲尾はメアリーの擁護者であり、全体の観察者でもある。その暖かさと客観性をあわせもった人格を造形したところで、この作品はかすかな救いを得た。
 
 まっとうな台詞劇だが、第二幕からは、権謀術数の行方から目が離せない。堀尾幸男の装置が立体感のある城のたたずまいを構成してすぐれている。照明の佐藤啓が重厚な場を描いていた。