粘菌は世界を覆い尽くす
夜の部の物語は、兵器として作られた粘菌が大きな役割を果たす。
皇弟ミラルバは、粘菌を兵器としようとする。大地が人の住めない腐海になろうとも怖れない。
原作が成立した時点では、まだ緊急のものとなっていない世界の問題が、ときに顔を出す。たとえば、この粘菌の件りで、テロや化学兵器や温暖化に何の対策も講じない(講じることさえできない)権力者が思い出されたりもする。
物語は、ミラルバの兄ナムリスが弟にとって変わり、さらに大地の破壊がエスカレートするあたりから急変する。
ナウシカもトルメキアのヴ王(歌六)、クシャナ(七之助)までもが、土鬼の聖都シュワをめざしていく。だれもがカタストロフへこの星が進んで行くのを止められない。
巨神兵の覚醒
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原作がおもしろく、この歌舞伎版でも異彩を放っているのは、第六幕第一場の巨神兵の覚醒である。
この巨大な兵士は、なぜかナウシカを母と思い慕う。単なるストーリー上のご都合主義ではない。この兵士を「操って」シュワとその聖地の墓所へ向かうナウシカは、母と慕う存在を利用しているだけではないかと自ら疑っている。
「風の谷」の平和は、戦いによってしか守れない。それには、最終兵器の隠喩である巨神兵を利用するしかない。
治者たる者のジレンマを、ナウシカとクシャナはやがて共有することになる。
かけがえのない友人テトの死
さらに、歌舞伎版は原作漫画の名場面をのがさない。
注目されるのは、大詰の第二場、ヒドラの庭の場である。
上演時間を考えれば、迂回にも見えるこの件りを、今回の上演台本は割愛していない。
シュワをめざす途中、ナウシカは、いつも肩にのっていたテトを失う。
これは、巨神兵の放つ毒の光によるものとされる。つまりは、ナウシカは最終兵器を得たかわりに、かけがえのない友人、キツネリスのテトを失ってしまう。これほど痛烈なナウシカ批判はあろうか。
ナウシカの身体も弱っている。
庭の主は、殺戮と毒に満ちた世界とは屁だったこの庭で、ナウシカを休息させる。庭の主は、実は不死のヒドラ(芝のぶ)で、ユートピアに見せたディストピアで、ナウシカを絡め取ろうとしている。
舞台面は、歌舞伎でよく使われる農村の風景である。郷愁をさそう日本的な風景が、先へ行こうとするナウシカを惑わせる。このパラドックスもまた、安らぐ場所を持たないナウシカ、いかなることがあっても、すべてを許してくれる「母」を持たないヒロインの苦渋が強調される。
菊之助は、この場での戸惑い、不安に生彩がある。ナウシカであることを超えて、人間の不条理に達しているからだろう。
セルム(歌昇)の存在もあって、風の谷のナウシカ』の根源的なテーマが現れる。腐海が世界を浄めたあとの世界は、今生きる人間たちを許容するか。ただし、歌舞伎は、こうした哲学的な苦悩を描くには適していない。
大詰の詳細については、まだ、上演中のためにここでは書かない。ヴ王の自己犠牲が物語をようやく着地させるとだけ書いておく。
(これ以降は、舞台に接してからお読みになることを強くおすすめする)
墓所の主の声は、吉右衛門。声だけの出演ではあるが、超常的な存在として、さすがの大きさを示している。
背景にゆらめく文字は、コンピュータ言語によって支配されるようになった二十一世紀を予感している。
ただ、この揺らぎを止めるのが、いささか早い。墓の主の精(歌昇)のとオーマの精(右近)の対立は、歌舞伎舞踊の「石橋」の見立てで、歌舞伎ならではの演出となっている。
主な登場人物で絵面(えめん 一幅の絵画のように、人物を配置して、決まる)となる。背景には血に染まった日輪が登る。犠牲の上に立った世界の再生を思わせる。
壮大な通し狂言にふさわしい結末であった。
2020年3月5日木曜日
【劇評156】『風の谷のナウシカ』夜の部(上)菊之助が生まれ持ったオーラ
壊滅的なカタルシスへ
昼の部の案内役は、「口上(尾上右近)」。これが道化(種之助)に変わる。
タペストリー幕を使っての世界の紹介は、昼の部同様だが、大海嘨(だいしょうかい)の文字が加わっている。壊滅的なカタルシスをあらわす。
この道化が、大詰で大きな役割を果たすのが、今回の歌舞伎版『風の谷のナウシカ』のもっとも重要な趣向だろう。
第一幕のプロローグは、『仮名手本忠臣蔵』の大序を意識した「名乗り」から始まる。
主要な登場人物が、みずからを語る趣向である。トルメキア王のヴ王(歌六)、土鬼皇弟ミラルバ(巳之助)、僧官チャルカ(錦之助)、ユバ(松也)、アスベル(尾上右近)、ケチャ(米吉)、クロトワ(片岡亀蔵)、そしてクシャナ(七之助)が、勢揃いして「名乗り」を上げる。
この幕開きは、まさしく大歌舞伎らしい愉しみ。
歌舞伎に初めて接する観客も、こうした様式的な演出には、新鮮味を感じるに違いない。
詰めかけた観客とは?
そもそも、観客席を埋めているのは、漫画『風の谷のナウシカ』の全巻をすでに読んでいる人々だろう。すくなくともアニメ版に一度は接したことがある人々に違いない。
こうした事前の知識を前提とするのは、歌舞伎でも文楽でもお能でも狂言でも同様である。
もっとも、夜の部は、昼の部の観劇を前提としていない。それだけでも独立して愉しめる。
だが、『風の谷のナウシカ』の原作の体験があったほうが、当然、深い読みができるのは当然と言えば当然。
『風の谷のナウシカ』をすでに体験した日本人は、どう少なく見積もっても歌舞伎ファンよりは遙かに多い。この舞台は、歌舞伎を初めて観る『風の谷のナウシカ』ファンに、満足して貰うのが大前提。
そのあとに、役者の贔屓や新作歌舞伎ファンが想定されているに違いない。
これは、歌舞伎の未来に対する投資である。挑戦でもある。
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無償の愛によって、ナウシカは守られている。
さて、ナウシカには、付き従うサブキャラクターたちがいる。昼の部から登場しているるキツネリスのテト、砂漠のなかで出合った子どもチクク(安藤然と星一輝の交互出演)、そして、序盤からお守り役を務める城オジのミト(橘太郎)である。彼らの無償の愛によって、ナウシカは守られている。
この幸福感をかもしだすのが、菊之助の生まれ持った役者としての人柄で、単に、姿形ではない。全体にかもしだす人格というべきアウラだろう。
こうした人々に愛されるには条件がある。
ナウシカは優しいだけの役ではない。
だれも止められない、お転婆な雰囲気を強く打ち出すことが、ナウシカ役者に求められている。
女形には、足取りについて決まった型がある。この型をいささか変型しても、ナウシカの溌剌たる魅力を発散することが望ましい。
それは、せんじつめれば、オーラといいかえてもいい。
それさえあれば、歌舞伎という役者本位の演劇は、成立する。
宮崎駿原作の『風の谷のナウシカ』が、アニメの世界の世界的な古典として君臨するのは、この「ナウシカ」にオーラを放つことに成功したからだろうと思う。
これは、ナウシカが育った境遇だけによるものではない。ナウシカが、複雑な糸にからめとられて運命を背負っているからだともいえる。
こうした特別な存在は、歌舞伎の芯になる役者と親和力がある。
「ナウシカ」は唯一無二の存在である。他にかけがえのないキャラクターとして、漫画からアニメから離れて、メディアの宇宙を生きている。こうした存在は、役者のなかの役者、歌舞伎のなかで、ある運命を背負って生まれてきた役者によって演じられてこそ輝きを持つ。
菊之助は生まれ落ちてから、この世を去るまで、役者であり続けることを宿命とした存在だった。
(この稿、下に続く)
昼の部の案内役は、「口上(尾上右近)」。これが道化(種之助)に変わる。
タペストリー幕を使っての世界の紹介は、昼の部同様だが、大海嘨(だいしょうかい)の文字が加わっている。壊滅的なカタルシスをあらわす。
この道化が、大詰で大きな役割を果たすのが、今回の歌舞伎版『風の谷のナウシカ』のもっとも重要な趣向だろう。
第一幕のプロローグは、『仮名手本忠臣蔵』の大序を意識した「名乗り」から始まる。
主要な登場人物が、みずからを語る趣向である。トルメキア王のヴ王(歌六)、土鬼皇弟ミラルバ(巳之助)、僧官チャルカ(錦之助)、ユバ(松也)、アスベル(尾上右近)、ケチャ(米吉)、クロトワ(片岡亀蔵)、そしてクシャナ(七之助)が、勢揃いして「名乗り」を上げる。
この幕開きは、まさしく大歌舞伎らしい愉しみ。
歌舞伎に初めて接する観客も、こうした様式的な演出には、新鮮味を感じるに違いない。
詰めかけた観客とは?
そもそも、観客席を埋めているのは、漫画『風の谷のナウシカ』の全巻をすでに読んでいる人々だろう。すくなくともアニメ版に一度は接したことがある人々に違いない。
こうした事前の知識を前提とするのは、歌舞伎でも文楽でもお能でも狂言でも同様である。
もっとも、夜の部は、昼の部の観劇を前提としていない。それだけでも独立して愉しめる。
だが、『風の谷のナウシカ』の原作の体験があったほうが、当然、深い読みができるのは当然と言えば当然。
『風の谷のナウシカ』をすでに体験した日本人は、どう少なく見積もっても歌舞伎ファンよりは遙かに多い。この舞台は、歌舞伎を初めて観る『風の谷のナウシカ』ファンに、満足して貰うのが大前提。
そのあとに、役者の贔屓や新作歌舞伎ファンが想定されているに違いない。
これは、歌舞伎の未来に対する投資である。挑戦でもある。
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無償の愛によって、ナウシカは守られている。
さて、ナウシカには、付き従うサブキャラクターたちがいる。昼の部から登場しているるキツネリスのテト、砂漠のなかで出合った子どもチクク(安藤然と星一輝の交互出演)、そして、序盤からお守り役を務める城オジのミト(橘太郎)である。彼らの無償の愛によって、ナウシカは守られている。
この幸福感をかもしだすのが、菊之助の生まれ持った役者としての人柄で、単に、姿形ではない。全体にかもしだす人格というべきアウラだろう。
こうした人々に愛されるには条件がある。
ナウシカは優しいだけの役ではない。
だれも止められない、お転婆な雰囲気を強く打ち出すことが、ナウシカ役者に求められている。
女形には、足取りについて決まった型がある。この型をいささか変型しても、ナウシカの溌剌たる魅力を発散することが望ましい。
それは、せんじつめれば、オーラといいかえてもいい。
それさえあれば、歌舞伎という役者本位の演劇は、成立する。
宮崎駿原作の『風の谷のナウシカ』が、アニメの世界の世界的な古典として君臨するのは、この「ナウシカ」にオーラを放つことに成功したからだろうと思う。
これは、ナウシカが育った境遇だけによるものではない。ナウシカが、複雑な糸にからめとられて運命を背負っているからだともいえる。
こうした特別な存在は、歌舞伎の芯になる役者と親和力がある。
「ナウシカ」は唯一無二の存在である。他にかけがえのないキャラクターとして、漫画からアニメから離れて、メディアの宇宙を生きている。こうした存在は、役者のなかの役者、歌舞伎のなかで、ある運命を背負って生まれてきた役者によって演じられてこそ輝きを持つ。
菊之助は生まれ落ちてから、この世を去るまで、役者であり続けることを宿命とした存在だった。
(この稿、下に続く)
【劇評155】『風の谷のナウシカ』 昼の部(下) 颯爽たる七之助のクシャナ。
皇女クシャナの登場は、劇的である。
昼の部の(上)に、書いたように、ナウシカとの個性の違いは、拵えから明確になっている。
皇女クシャナ(七之助)の登場は、劇的である。
原作の衣裳にならって、金属製のメタルが輝き、風と自然を味方とするナウシカとは対象的である。ナウシカは族長の娘であるのに対して、クシュ母皇女。その威厳に満ちている。
あえていえば、威厳にはその裏側にプライドがある。自尊心には、高慢も当然、つきまとっている。七之助はこのあたりをひとつの人格として造形するのが巧みな役者である。他の追従を許さない。
ナウシカ実験室の場、空中ガンシップの場、は、『風の谷のナウシカ』の原作、前半の名場面集の趣き。腐海・森の奥の場、同・森の底の場は、ベジテの王子アスベル(右近)との出会い、ナウシカと王蟲との特別な関係が描かれる。
原作では、ナウシカとアスベルの淡い恋が重要に思われるが、舞台ではさらりと描かれている。むしろ、松也、右近の立役としての成長、立廻りのキレが序幕を支えている。
第八場では、クシャナとつかず離れずの主従となるクロトワ(片岡亀蔵)が登場し、観客を沸かせる。
第九場では、ケチャ(米吉)に案内され、土鬼のマニ族の僧正(又五郎)と出合う。幼い王蟲を囮とする土鬼の軍の戦略にナウシカは強く反発する。
序幕から第一幕へ。菊之助のナウシカは、これまで優しい少女に終始していた。
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強い意志を持った女性へと成長していく。
今回、七巻に及ぶ漫画を原作としたために、ナウシカの成長譚として成立しているかが舞台の鍵となる。
第一幕の第十一場、ナウシカが傷ついた王蟲の幼虫を助ける件りから、物語の主筋が鮮明になる。
あえていえば、ナウシカが持っている世界観は、マイノリティへの共感に貫かれている。見た目の美醜は、ナウシカにとって意味を持たない。蟲や蟲使いへの共感が、ナウシカの心性をよくあらわしている。
ただし、この成長が明確になるには、夜の部を待たなければならない。
これは、昼夜通し狂言の宿命だろう。『仮名手本忠臣蔵』でも『義経千本桜』でも、カタルシスは後半に来る。
土鬼帝国の神聖皇弟(巳之助)の登場
第二幕は、土鬼帝国の神聖皇弟ミラルバ(巳之助)の登場が見どころとなる。ミラルバは僧官のチャルカ(錦之助)とともに現れる。
原作でも「皇帝」ではなく「皇弟」であると強調するために「弟」に傍点が打たれている。注意されたい。
悪をあらわす青筋隈、荒事の身体を駆使して、この超常的な能力を持つ人物を造形している。
役としての大きさを小手先ではなく、身体そのもので見せる役者に成長したとわかる。
ナウシカ、クシャナ、ミラルバは、前半の人物図において対立の三角形を作る。
それぞれの個性が鮮明に描かれなければならない。
演技の工夫はそれぞれの役者にゆだねられているのは、もちろんだが、拵えや鬘、筋隈など古典歌舞伎の記号、シンボルが総動員されている。
クシュナの流離譚
第三幕は「白き魔女」と呼びなわされるクシュナの流離譚が中心となっている。高貴な家柄に生まれながらも、上の三人の兄皇子に妬まれ、辺境へと追いやられ、手兵を失いつつある。
窮地にある皇女クシュナとナウシカのあいだに友情らしきものの芽生えがある。
この友情は、親愛とも違う。人
間は世界といかに向かい合うべきかを、ふたりは互いの行動で考えをすすめていく。
兵の血、王蟲の暴走によって購われているこの友情は、きれいごとではすまされない。
第三幕の哀切。ナウシカはトリウマに乗って戦場を疾走する。本舞台の中央、ナウシカが倒れたトリウマをいたわう場面は、いかなるアクロバットな宙乗りよりも感動的に思われた。
昼の部では、ナウシカの「反戦」ではなく「不戦」への憧れがよく出ている。
血に塗られた闘いに溺れていくのも人間の業。
戦いをなんとか避けようと思いつつ否応なく巻き込まれていくのも人間の宿命だろう。
昼の部の(上)に、書いたように、ナウシカとの個性の違いは、拵えから明確になっている。
皇女クシャナ(七之助)の登場は、劇的である。
原作の衣裳にならって、金属製のメタルが輝き、風と自然を味方とするナウシカとは対象的である。ナウシカは族長の娘であるのに対して、クシュ母皇女。その威厳に満ちている。
あえていえば、威厳にはその裏側にプライドがある。自尊心には、高慢も当然、つきまとっている。七之助はこのあたりをひとつの人格として造形するのが巧みな役者である。他の追従を許さない。
ナウシカ実験室の場、空中ガンシップの場、は、『風の谷のナウシカ』の原作、前半の名場面集の趣き。腐海・森の奥の場、同・森の底の場は、ベジテの王子アスベル(右近)との出会い、ナウシカと王蟲との特別な関係が描かれる。
原作では、ナウシカとアスベルの淡い恋が重要に思われるが、舞台ではさらりと描かれている。むしろ、松也、右近の立役としての成長、立廻りのキレが序幕を支えている。
第八場では、クシャナとつかず離れずの主従となるクロトワ(片岡亀蔵)が登場し、観客を沸かせる。
第九場では、ケチャ(米吉)に案内され、土鬼のマニ族の僧正(又五郎)と出合う。幼い王蟲を囮とする土鬼の軍の戦略にナウシカは強く反発する。
序幕から第一幕へ。菊之助のナウシカは、これまで優しい少女に終始していた。
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強い意志を持った女性へと成長していく。
今回、七巻に及ぶ漫画を原作としたために、ナウシカの成長譚として成立しているかが舞台の鍵となる。
第一幕の第十一場、ナウシカが傷ついた王蟲の幼虫を助ける件りから、物語の主筋が鮮明になる。
あえていえば、ナウシカが持っている世界観は、マイノリティへの共感に貫かれている。見た目の美醜は、ナウシカにとって意味を持たない。蟲や蟲使いへの共感が、ナウシカの心性をよくあらわしている。
ただし、この成長が明確になるには、夜の部を待たなければならない。
これは、昼夜通し狂言の宿命だろう。『仮名手本忠臣蔵』でも『義経千本桜』でも、カタルシスは後半に来る。
土鬼帝国の神聖皇弟(巳之助)の登場
第二幕は、土鬼帝国の神聖皇弟ミラルバ(巳之助)の登場が見どころとなる。ミラルバは僧官のチャルカ(錦之助)とともに現れる。
原作でも「皇帝」ではなく「皇弟」であると強調するために「弟」に傍点が打たれている。注意されたい。
悪をあらわす青筋隈、荒事の身体を駆使して、この超常的な能力を持つ人物を造形している。
役としての大きさを小手先ではなく、身体そのもので見せる役者に成長したとわかる。
ナウシカ、クシャナ、ミラルバは、前半の人物図において対立の三角形を作る。
それぞれの個性が鮮明に描かれなければならない。
演技の工夫はそれぞれの役者にゆだねられているのは、もちろんだが、拵えや鬘、筋隈など古典歌舞伎の記号、シンボルが総動員されている。
クシュナの流離譚
第三幕は「白き魔女」と呼びなわされるクシュナの流離譚が中心となっている。高貴な家柄に生まれながらも、上の三人の兄皇子に妬まれ、辺境へと追いやられ、手兵を失いつつある。
窮地にある皇女クシュナとナウシカのあいだに友情らしきものの芽生えがある。
この友情は、親愛とも違う。人
間は世界といかに向かい合うべきかを、ふたりは互いの行動で考えをすすめていく。
兵の血、王蟲の暴走によって購われているこの友情は、きれいごとではすまされない。
第三幕の哀切。ナウシカはトリウマに乗って戦場を疾走する。本舞台の中央、ナウシカが倒れたトリウマをいたわう場面は、いかなるアクロバットな宙乗りよりも感動的に思われた。
昼の部では、ナウシカの「反戦」ではなく「不戦」への憧れがよく出ている。
血に塗られた闘いに溺れていくのも人間の業。
戦いをなんとか避けようと思いつつ否応なく巻き込まれていくのも人間の宿命だろう。
【劇評154】『風の谷のナウシカ』 昼の部(上) 菊之助の無念。
突然の事故が菊之助を襲った。
新橋演舞場の『風の谷のナウシカ』は六日に初日を開けた。
すでに報道されているように、八日の昼の部の第三幕、幕切れに事故がおきた。ナウシカを演じる菊之助が、不慮の事故にあって左肘を骨折、夜の部は中止となった。
翌、九日昼の部からは、左腕を固定したまま、演出を一部変えて舞台に復帰した。
私自身は、十二日の昼の部、夜の部を通して観た。
六日の初日も通して見た若い友人と劇場で会った。彼女によると、昼の部に限っても、演出は現行とは、かなり異なっていたようだ。
振り落としや振りかぶせのような歌舞伎演出が整理されたこと。
菊之助による立廻りや宙乗りが削られたこと。
役者にとって、こうした見せ場を身体の故障によって小気味よく演じられないのは、さぞ辛いことだろうと思う。
しかし、こうした歌舞伎的なスペクタクルを欠いたために、逆に得たものも大きかったのではないか。
失ったものもあれば、引き換えに得るものもある。人生も舞台もうまくできている。
昼の部は、宮崎駿による原作七巻本をあたると、ほぼ第三巻までに相当する。
原作の漫画だけで一千六百万冊が売れたナウシカである。
ナウシカの人物論は、読者それぞれによって違うのはいうまでもない。
私の理解するところでは、大規模な戦闘に巻き込まれるまでのナウシカは、粘菌類を含めた植物や民草への慈しみにあふれている。決して、戦闘や殺戮、血を流すことを好んではいない。だとすると、歌舞伎のスペクタクル、特に立廻りは、ナウシカ本来の性格と矛盾するきらいがあった。
また、メーヴェに乗ってのフライングは、漫画だから重力の制約とは無縁だ。しかも、その細部を描ききる必要はない。けれど、舞台化したとたんに、重力の制約は重くのしかかり、道具としての精度やリアリティも問われることになる。ナウシカの熱烈な愛好者を納得させるのは、むずかしい。
今回、昼の部の立廻りとフライングを欠いたことによって、かえってナウシカの不戦の心情があきらかになった。
菊之助が左腕をぎこちなく使うときに、優しく慎重なナウシカの性格が強く出る。
そのために、歌舞伎の役柄でいえば「女武道」に相当する七之助のクシュナとの対比が鮮明になったのである。
序幕から書いていく。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
まずは、第一場のプロローグ。尾上右近による口上。このナウシカの世界を年代記風に描いたタペストリーを背景に、腐海、王蟲、トリメキア、土鬼など、この作品独特の用語を、要領よく説明していく。
第二場の注目点は、ナウシカ(菊之助)の「出」。
ナウシカは、歌舞伎で言えば娘方だろうけれど、和服の着付や鬘に守られていないために、女形の発声がナウシカのキャラクターと重ならず、登場の「出」から少女ナウシカと思わせるのは正直言って厳しい。
けれども、こうした新作では、往々にして起こることでもある。なにしろ男性が少女役を演じるのだから、不自然さがまったくないはずもない。
はじめは違和感を感じた観客が、劇が進むにつれて、菊之助はナウシカなのだと信じていく。芸の力、歌舞伎の技藝で、観客から徐々に受け入れられていく。昼の部をみただけで、この困難な試みは、充分成功していた。
第二場、ナウシカは、トルメキアに滅ぼされた工房都市ベジテのラステル(鶴松)と出合う。瀕死のラステルに秘石を託される。
そこで、この芝居の基調が明らかになる。だれもが世界を支配するための鍵、秘石を狙っている。偶然、この石はナウシカに託された。探して、見つける。シーク&ファインドの物語である。
第三場は、剣士のユバ(松也)、ナウシカの父、族長のジル(権十郎)、城ババ(萬次郎)、城おじのミト(橘太郎)ら主要な人物が紹介される。
こうした周囲の人物がナウシカを族長の後継として認め、さらにその優しい心根が人を惹きつけるところに物語の格がある。
しかも、「風の谷」人物たちは、菊五郎劇団の中核にいる役者たちが演じている。菊之助は将来、菊五郎の名跡を継承するのは当然とだれもが考えている。
歌舞伎は役と役者が二重写しになるだけではない。役の関係性と役者のおかれた状況もまた二重写しになる。このあたりを考えての配役だろう。同じ劇団に育ち、菊之助にアクシデントがあり、それを乗り越えて舞台を成立させなければならぬ。
役者同士がお互いを思う気持ちが自然に通って、説得力を持った。
(昼の部 下 に続く)
新橋演舞場の『風の谷のナウシカ』は六日に初日を開けた。
すでに報道されているように、八日の昼の部の第三幕、幕切れに事故がおきた。ナウシカを演じる菊之助が、不慮の事故にあって左肘を骨折、夜の部は中止となった。
翌、九日昼の部からは、左腕を固定したまま、演出を一部変えて舞台に復帰した。
私自身は、十二日の昼の部、夜の部を通して観た。
六日の初日も通して見た若い友人と劇場で会った。彼女によると、昼の部に限っても、演出は現行とは、かなり異なっていたようだ。
振り落としや振りかぶせのような歌舞伎演出が整理されたこと。
菊之助による立廻りや宙乗りが削られたこと。
役者にとって、こうした見せ場を身体の故障によって小気味よく演じられないのは、さぞ辛いことだろうと思う。
しかし、こうした歌舞伎的なスペクタクルを欠いたために、逆に得たものも大きかったのではないか。
失ったものもあれば、引き換えに得るものもある。人生も舞台もうまくできている。
昼の部は、宮崎駿による原作七巻本をあたると、ほぼ第三巻までに相当する。
原作の漫画だけで一千六百万冊が売れたナウシカである。
ナウシカの人物論は、読者それぞれによって違うのはいうまでもない。
私の理解するところでは、大規模な戦闘に巻き込まれるまでのナウシカは、粘菌類を含めた植物や民草への慈しみにあふれている。決して、戦闘や殺戮、血を流すことを好んではいない。だとすると、歌舞伎のスペクタクル、特に立廻りは、ナウシカ本来の性格と矛盾するきらいがあった。
また、メーヴェに乗ってのフライングは、漫画だから重力の制約とは無縁だ。しかも、その細部を描ききる必要はない。けれど、舞台化したとたんに、重力の制約は重くのしかかり、道具としての精度やリアリティも問われることになる。ナウシカの熱烈な愛好者を納得させるのは、むずかしい。
今回、昼の部の立廻りとフライングを欠いたことによって、かえってナウシカの不戦の心情があきらかになった。
菊之助が左腕をぎこちなく使うときに、優しく慎重なナウシカの性格が強く出る。
そのために、歌舞伎の役柄でいえば「女武道」に相当する七之助のクシュナとの対比が鮮明になったのである。
序幕から書いていく。
このラインより上のエリアが無料で表示されます。
まずは、第一場のプロローグ。尾上右近による口上。このナウシカの世界を年代記風に描いたタペストリーを背景に、腐海、王蟲、トリメキア、土鬼など、この作品独特の用語を、要領よく説明していく。
第二場の注目点は、ナウシカ(菊之助)の「出」。
ナウシカは、歌舞伎で言えば娘方だろうけれど、和服の着付や鬘に守られていないために、女形の発声がナウシカのキャラクターと重ならず、登場の「出」から少女ナウシカと思わせるのは正直言って厳しい。
けれども、こうした新作では、往々にして起こることでもある。なにしろ男性が少女役を演じるのだから、不自然さがまったくないはずもない。
はじめは違和感を感じた観客が、劇が進むにつれて、菊之助はナウシカなのだと信じていく。芸の力、歌舞伎の技藝で、観客から徐々に受け入れられていく。昼の部をみただけで、この困難な試みは、充分成功していた。
第二場、ナウシカは、トルメキアに滅ぼされた工房都市ベジテのラステル(鶴松)と出合う。瀕死のラステルに秘石を託される。
そこで、この芝居の基調が明らかになる。だれもが世界を支配するための鍵、秘石を狙っている。偶然、この石はナウシカに託された。探して、見つける。シーク&ファインドの物語である。
第三場は、剣士のユバ(松也)、ナウシカの父、族長のジル(権十郎)、城ババ(萬次郎)、城おじのミト(橘太郎)ら主要な人物が紹介される。
こうした周囲の人物がナウシカを族長の後継として認め、さらにその優しい心根が人を惹きつけるところに物語の格がある。
しかも、「風の谷」人物たちは、菊五郎劇団の中核にいる役者たちが演じている。菊之助は将来、菊五郎の名跡を継承するのは当然とだれもが考えている。
歌舞伎は役と役者が二重写しになるだけではない。役の関係性と役者のおかれた状況もまた二重写しになる。このあたりを考えての配役だろう。同じ劇団に育ち、菊之助にアクシデントがあり、それを乗り越えて舞台を成立させなければならぬ。
役者同士がお互いを思う気持ちが自然に通って、説得力を持った。
(昼の部 下 に続く)