2020年3月5日木曜日

【劇評156】『風の谷のナウシカ』夜の部(上)菊之助が生まれ持ったオーラ

 壊滅的なカタルシスへ

 昼の部の案内役は、「口上(尾上右近)」。これが道化(種之助)に変わる。
 タペストリー幕を使っての世界の紹介は、昼の部同様だが、大海嘨(だいしょうかい)の文字が加わっている。壊滅的なカタルシスをあらわす。
 この道化が、大詰で大きな役割を果たすのが、今回の歌舞伎版『風の谷のナウシカ』のもっとも重要な趣向だろう。

 第一幕のプロローグは、『仮名手本忠臣蔵』の大序を意識した「名乗り」から始まる。
 主要な登場人物が、みずからを語る趣向である。トルメキア王のヴ王(歌六)、土鬼皇弟ミラルバ(巳之助)、僧官チャルカ(錦之助)、ユバ(松也)、アスベル(尾上右近)、ケチャ(米吉)、クロトワ(片岡亀蔵)、そしてクシャナ(七之助)が、勢揃いして「名乗り」を上げる。

 この幕開きは、まさしく大歌舞伎らしい愉しみ。
歌舞伎に初めて接する観客も、こうした様式的な演出には、新鮮味を感じるに違いない。
詰めかけた観客とは?

 そもそも、観客席を埋めているのは、漫画『風の谷のナウシカ』の全巻をすでに読んでいる人々だろう。すくなくともアニメ版に一度は接したことがある人々に違いない。
 こうした事前の知識を前提とするのは、歌舞伎でも文楽でもお能でも狂言でも同様である。

 もっとも、夜の部は、昼の部の観劇を前提としていない。それだけでも独立して愉しめる。

 だが、『風の谷のナウシカ』の原作の体験があったほうが、当然、深い読みができるのは当然と言えば当然。
 『風の谷のナウシカ』をすでに体験した日本人は、どう少なく見積もっても歌舞伎ファンよりは遙かに多い。この舞台は、歌舞伎を初めて観る『風の谷のナウシカ』ファンに、満足して貰うのが大前提。
 そのあとに、役者の贔屓や新作歌舞伎ファンが想定されているに違いない。
 これは、歌舞伎の未来に対する投資である。挑戦でもある。
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無償の愛によって、ナウシカは守られている。

 さて、ナウシカには、付き従うサブキャラクターたちがいる。昼の部から登場しているるキツネリスのテト、砂漠のなかで出合った子どもチクク(安藤然と星一輝の交互出演)、そして、序盤からお守り役を務める城オジのミト(橘太郎)である。彼らの無償の愛によって、ナウシカは守られている。

 この幸福感をかもしだすのが、菊之助の生まれ持った役者としての人柄で、単に、姿形ではない。全体にかもしだす人格というべきアウラだろう。
こうした人々に愛されるには条件がある。

 ナウシカは優しいだけの役ではない。 

 だれも止められない、お転婆な雰囲気を強く打ち出すことが、ナウシカ役者に求められている。
 女形には、足取りについて決まった型がある。この型をいささか変型しても、ナウシカの溌剌たる魅力を発散することが望ましい。

 それは、せんじつめれば、オーラといいかえてもいい。
 それさえあれば、歌舞伎という役者本位の演劇は、成立する。

 宮崎駿原作の『風の谷のナウシカ』が、アニメの世界の世界的な古典として君臨するのは、この「ナウシカ」にオーラを放つことに成功したからだろうと思う。
 これは、ナウシカが育った境遇だけによるものではない。ナウシカが、複雑な糸にからめとられて運命を背負っているからだともいえる。

 こうした特別な存在は、歌舞伎の芯になる役者と親和力がある。

 「ナウシカ」は唯一無二の存在である。他にかけがえのないキャラクターとして、漫画からアニメから離れて、メディアの宇宙を生きている。こうした存在は、役者のなかの役者、歌舞伎のなかで、ある運命を背負って生まれてきた役者によって演じられてこそ輝きを持つ。
 菊之助は生まれ落ちてから、この世を去るまで、役者であり続けることを宿命とした存在だった。

(この稿、下に続く)