皇女クシャナの登場は、劇的である。
昼の部の(上)に、書いたように、ナウシカとの個性の違いは、拵えから明確になっている。
皇女クシャナ(七之助)の登場は、劇的である。
原作の衣裳にならって、金属製のメタルが輝き、風と自然を味方とするナウシカとは対象的である。ナウシカは族長の娘であるのに対して、クシュ母皇女。その威厳に満ちている。
あえていえば、威厳にはその裏側にプライドがある。自尊心には、高慢も当然、つきまとっている。七之助はこのあたりをひとつの人格として造形するのが巧みな役者である。他の追従を許さない。
ナウシカ実験室の場、空中ガンシップの場、は、『風の谷のナウシカ』の原作、前半の名場面集の趣き。腐海・森の奥の場、同・森の底の場は、ベジテの王子アスベル(右近)との出会い、ナウシカと王蟲との特別な関係が描かれる。
原作では、ナウシカとアスベルの淡い恋が重要に思われるが、舞台ではさらりと描かれている。むしろ、松也、右近の立役としての成長、立廻りのキレが序幕を支えている。
第八場では、クシャナとつかず離れずの主従となるクロトワ(片岡亀蔵)が登場し、観客を沸かせる。
第九場では、ケチャ(米吉)に案内され、土鬼のマニ族の僧正(又五郎)と出合う。幼い王蟲を囮とする土鬼の軍の戦略にナウシカは強く反発する。
序幕から第一幕へ。菊之助のナウシカは、これまで優しい少女に終始していた。
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強い意志を持った女性へと成長していく。
今回、七巻に及ぶ漫画を原作としたために、ナウシカの成長譚として成立しているかが舞台の鍵となる。
第一幕の第十一場、ナウシカが傷ついた王蟲の幼虫を助ける件りから、物語の主筋が鮮明になる。
あえていえば、ナウシカが持っている世界観は、マイノリティへの共感に貫かれている。見た目の美醜は、ナウシカにとって意味を持たない。蟲や蟲使いへの共感が、ナウシカの心性をよくあらわしている。
ただし、この成長が明確になるには、夜の部を待たなければならない。
これは、昼夜通し狂言の宿命だろう。『仮名手本忠臣蔵』でも『義経千本桜』でも、カタルシスは後半に来る。
土鬼帝国の神聖皇弟(巳之助)の登場
第二幕は、土鬼帝国の神聖皇弟ミラルバ(巳之助)の登場が見どころとなる。ミラルバは僧官のチャルカ(錦之助)とともに現れる。
原作でも「皇帝」ではなく「皇弟」であると強調するために「弟」に傍点が打たれている。注意されたい。
悪をあらわす青筋隈、荒事の身体を駆使して、この超常的な能力を持つ人物を造形している。
役としての大きさを小手先ではなく、身体そのもので見せる役者に成長したとわかる。
ナウシカ、クシャナ、ミラルバは、前半の人物図において対立の三角形を作る。
それぞれの個性が鮮明に描かれなければならない。
演技の工夫はそれぞれの役者にゆだねられているのは、もちろんだが、拵えや鬘、筋隈など古典歌舞伎の記号、シンボルが総動員されている。
クシュナの流離譚
第三幕は「白き魔女」と呼びなわされるクシュナの流離譚が中心となっている。高貴な家柄に生まれながらも、上の三人の兄皇子に妬まれ、辺境へと追いやられ、手兵を失いつつある。
窮地にある皇女クシュナとナウシカのあいだに友情らしきものの芽生えがある。
この友情は、親愛とも違う。人
間は世界といかに向かい合うべきかを、ふたりは互いの行動で考えをすすめていく。
兵の血、王蟲の暴走によって購われているこの友情は、きれいごとではすまされない。
第三幕の哀切。ナウシカはトリウマに乗って戦場を疾走する。本舞台の中央、ナウシカが倒れたトリウマをいたわう場面は、いかなるアクロバットな宙乗りよりも感動的に思われた。
昼の部では、ナウシカの「反戦」ではなく「不戦」への憧れがよく出ている。
血に塗られた闘いに溺れていくのも人間の業。
戦いをなんとか避けようと思いつつ否応なく巻き込まれていくのも人間の宿命だろう。