2016年7月31日日曜日

【閑話休題42】「夢想も抱かず絶望もしない立派な実際家」であるということ。都議選に寄せて。

 三島由紀夫の劇作家としての価値は、現在も下がってはいない。『サド侯爵夫人』『近代能楽集』の巧緻な劇作は、俳優の技藝とは何かを考える上でもおもしろく、世界的な普遍性を備えているように思う。
それに対して小説はどうか。と、問われると迷いが生まれる。華麗なる修辞がときにわずらわしく思えるのは、私が老境に達したからだろうか。
新潮新書から出た『人間の性(さが) 三島由紀夫の言葉』と題したアンソロジーがふっと気になって買い求めた。小説や評論の垣根をこえて、三島の警句を集めた新書である。そのなかに「われら衆愚の政治」と題した章がある。そのなかの一文が目にとまった。

 本当の現実主義者はみてくれのいい言葉などにとらわれない。たくましい現実主義者、夢想も抱かず絶望もしない立派な実際家、というような人物に私は投票したい。だれだって自分の家政を任せる人物を雇おうと思ったら、そうせずにはいられないないだろう。
「一つの政治的意見」(「毎日新聞」昭和35年(1960)年6月25日)

半世紀以上前に書かれた言葉だが、現在、私たちが置かれた現実にも通用するだけの射程をそなえている。
国政ではない。都知事選である。
「自分の家政を任せる人物」を選ぶというのは、なかなか悪くない。と思って候補者を見直してみるのだが、自称はともかく、立派な実際家がいったいどこにいるのか、首をかしげたくなる。
「夢想も抱かず絶望もしない立派な実際家」などというのは、絶滅種となりつつある。いや、政治家であることと立派な実際家は、両立しえないのではないかと考える。逆説的になるが、だからこそ、この三島の言葉は現在も警句として成り立っているのだろう。
ひるがえってみると、有権者もまた「夢想も抱かず絶望もしない立派な実際家」を求められていることに気がつく。
有権者であることと立派な実際家であることは矛盾しない。
両立しうるとすれば、さて、いったい誰を選ぶのか。
混迷は深まるばかりだが、気を取り直して投票所にいこうと思っている。

2016年7月24日日曜日

【劇評56】格差と貧困 高橋一生、吉高由里子の疾走感

 現代演劇劇評 平成二十八年七月 シアタートラム
シアター・トラムで疾走感あふれる舞台を観た。フィリップ・リドリーの『レディエント・バーミン』(白井晃演出 小宮山智津子翻訳)は、世界を席巻していた消費主義社会が不調になり、その速度を失いつつある時代を描いている。
若い二人の夫婦、オリー(高橋一生)とジル(吉高由里子)は、冒頭自分たちの罪について告白しはじめる。麻薬と貧困にあふれるスラムに育ち、その境遇から抜け出る可能性がないふたりは、ミス・ディー(キムラ緑子)と名乗る人物から一通の手紙を受け取った。将来性のある地域の五棟からなる廃屋のひとつをリフォームしてみないかというのである。「政府」に連絡するとはっきりではないが承認を受けている。現地にいくとミス・ディーは、すでに契約書を用意していた……。
劇の前半から早くから明らかになるので、ここで明かしてもいいだろう。
もし、観劇の予定がある方は、このあたりで読むのを止めてもよい。


各部屋は近隣のホームレスを殺すことによって魔法のように成し遂げられる。まだ、ジルのお腹にいる子供ベンジャミンのため、その美名を質にふたりは次々と「犯罪」を重ね、完璧に美しい部屋が次々と完成していく。
もちろんこの劇はファンタジーの形式を取る。このような現実があるわけもない。けれど、リドリーと白井は、そこに周到な寓意を込める。ふたりの成功が新たな移住者を呼び込み、五棟はすべて埋まっていく。近隣には大きなショッピングセンター(名前はネバーランド)が生まれ、雇用を生み出していく。はじめに移住してきたのは、宣伝などに出演する夫婦医師だった。
次第にその棟の人気が高まるに連れ、元裁判官、プロデューサーと社会的な地位をすでに得た人らが引っ越してきて「仲間」に加わっていくのだ。
このすべての人々を、高橋と吉高のふたりが、狂騒的に演じていくのが見物である。我を忘れ、自分を取り落としたままひたすら消費に走って行く姿は、テレビや雑誌の広告によって突き動かされてきた消費者の似姿でもある。
罪悪感を振り捨てようとしながら、ふたりは「犯罪」イコール「リフォーム」イコール社会的階梯の上昇をなしとげているかに見える。その象徴となるのが、生まれたベンジャミンの一歳の誕生日である。ガーデンパーティの形式をとった晴れがましい場は、一転してふたりがこれまで獲得した家を放棄するきっかけとなる。ふたりが生まれ育った地域では、緑の庭でのガーデンパーティなどありえないことだった。すばらしいインテリア、最新の電化製品に囲まれた家に加えて、「社交」をも手に入れようとしたときに破綻が起きる。これは厳然たる階級社会に閉じ込められた労働者階級の寓話ではない。格差と貧困がさまざまな壁を作りだしてきたこの二十年の日本でもあるのだ。
この舞台を見終えて、もはや経済成長のために国策を決めるのは、到底、無理な話になってしまっていると知る。オリーとジルは、今の家を出る時期に、二人目の子供を授かったと知る。少子化が止まらない日本で、内需に支えられた経済成長をこれからも長期に維持できないのは自明の事柄ではないか。
それでも百貨店や雑誌は、「すばらしいインテリア、最新の電化製品」のイメージを振りまく。それを手に入れたいのであれば、オリーのようにまず、男性が「ホームレス」イコール「異文化の他国民」を善意の神父を気取って狩りにいく。それでも富が足りないとすれば、今度は女性のジルまでが大量殺人に手を貸す。それによってはじめて自国の経済活動が維持され、快適な生活を送ることができるのだ。「戦争に行って罪はないが、自国の経済に貢献しない人間は殺してもかまわない。それによって特需が起き景気が上向きになれば結構」と、考えてはいませんか? と観客を挑発する。
こうした深刻きわまりない戯曲をブラック・コメディの形式に仕立て挙げた、リドリー、白井のしたたかさ。頭の隅に浮かぶ疑問を振り捨てるように子供に集中しようとする高橋、やがて欲望に取り憑かれコントロールがつかなくなる吉高、不気味な冷ややかさを漂わせるキムラとキャストの強い意志が舞台を支えている。
明日はとちらに行くのか。都知事選は間近に迫っている。
現代社会の行方を考える上で必見の舞台となった。

2016年7月18日月曜日

【閑話休題41】まつもと大歌舞伎と言い訳のあれこれ

七月はなにかと忙しく、講評会が続いて大学に通い、現代演劇を観るうちに、
松本にシンポジウムのために出かけることになった。言い訳になるけれども、
歌舞伎座の劇評を書く時間がどうしてもとれずに、遅くなってしまった。

松本ははじめて訪ねたけれども、街並みばかりではなく、市民のみなさんが、
人生を楽しんで生きているのがよくわかった。水が澄んで、空気が透明で、野菜がおいしい。
夏もしのぎやすく、喜びにあふれた。そばばかりではなく、よいイタリアンレストランにもめぐりあい
またとない時間を過ごした。

七月半ばになると私の務める東京芸術大学も来年度の学部、修士、博士の募集要項の配布がはじまる。
定年を考えると、来年入学する学部生が、仮に博士後期課程まで行くとすると、
博士号取得まで、通して教えられる最後の学年になると考えたりもする。

そんなことにこだわっているわけではないが、
私の研究室からも多士済々、芸術に対して尊敬を持つたくさんの学生に恵まれたので、
今更、何を望むわけではないが、劇評家としての後継者は、どうも育てそこなっている気がする。

批評を書きたい学生が受験してくれるといいのにと思ったりする今日この頃です。


【劇評55】猿之助の屈折、海老蔵の悪、中車の貫目

 歌舞伎劇評 平成十八年七月 歌舞伎座

海老蔵の持っているポテンシャルは、現在の歌舞伎役者のなかでも群を抜いている。とりわけ家の藝の荒事と実悪、色悪を演じるときに、ひときわ光彩を放つ。それはだれもが認めるところだろう。
七月歌舞伎座昼の部の『柳影澤蛍火 柳澤騒動』(宇野信夫作・演出 織田絋二補綴・演出)は、この海老蔵の才能の埋蔵量をよく意識した狂言となった。歌舞伎座では四十六年振りとあるが、三代目延若による国立劇場での初演と比べると、かなり整理がなされている。
それにもかかわらず、一幕目の浪宅の場、二幕目の桂昌院居間の場を冗長に感じてしまう。これは単に宇野の原作の責を問うわけにはいかない。『毛谷村』の六助でときに海老蔵が見せる善人めいた作り声にリアリティが欠けているからだ。
もっとも、東蔵の桂昌院には威厳があり、猿之助の隆光は曲者めいた屈折があり場を持たせた。中車の綱吉には犬公方とそしられるだけの狂気と弱さが備わっていた。
反面、四幕目、五幕目と悪に徹してからの海老蔵は、いよいよ輝きを増す。それに対して東蔵の桂昌院が死に際しての錯乱をみせるとき、いよいよ海老蔵の悪を際立たせる。「ご生母さま」と泣いてみせるときの冷ややかさが引き立つ。
海老蔵のポテンシャルも相手役があってのことで、腕や魅力がそなわった役者との共演が望まれる。
『流星』は、坂東流のやり方ではなく、沢潟屋らしく宙乗りまで見せ、空間の広がりがある。詞章を読んでもともと、上品で気取った踊りではない。猿之助が坂東流とは異なり面をつけての演じ分けも楽しく、雲の上の物語を軽く見せてほどがいい。(尾上)右近の織姫。巳之助の牽牛。
夜の部は、仁左衛門の名演で知られる『荒川の佐吉』(真山青果作 真山美保演出)。猿之助の佐吉、対となる弟分の辰五郎に巳之助。浪人の成川郷右衛門を海老蔵がつきあって、厚みのある芝居となった。
猿之助の当り役になるだろうと予感させるのは、なにより三下時代のみじめさ、卑屈さが手厚く描き出されているからだ。自らの境遇をひがんでいるからこそ、鍾馗の親分(猿弥)の娘で大家に嫁いだお新(笑也)の子を愛情を込めて育てている。その矛盾があからさまに出ていて、説得力がある。善行ではない。
この子育ては、佐吉のやむにやまれぬ生き方なのである。
それに対して人がよく、佐吉の生き方に共振している弟分の辰五郎もまたすぐれている。
この男は少しとろいのではないか。そう思わせて、懸命に生きている大工の性根をたんねんに描写していく。
第四幕、第一場。すでに成川を倒して大親分になった佐吉が、世話になった中車の又五郎に説得されるところがまたいい。
中車は苦渋を滲ませながらも、情理を説く。一歩も引かない男の貫禄で舞台を圧している。
この芝居でも昼の部の『柳澤騒動』と同じ事がいえる。猿之助もまた無人の一座での奮闘もいいが、海老蔵との対比があってこそ、猿之助本来の魅力が生きる。
それはひたむきな人間が、泪にくれるときの絶望ではなかったか。
続いて『壽三升景清』としてくくった『鎌髭』と『景清』。松岡亮の脚本、藤間勘十郎の演出・振付。荒事を演じさせて海老蔵が悪かろうはずがないが、『鎌髭』では祝祭劇を支えるだけの実質をそなえた役者が数少なくなっているのを感じさせた。
(市川)右近の猪熊入道は、これまでは演じてこなかった役柄だが、飄々たる味があり、なお軽くならずにおもしろく観た。
また、『景清』は、前回に上演のときも思ったが、海老蔵の登場が遅く、しかも太い格子にさえぎられ魅力が届かない。演出に新たな工夫が望まれる。二十六日まで。

2016年7月9日土曜日

【閑話休題40】参院選の行方。最悪なシナリオにならないための投票

先週、大変慌ただしく過ごしました。来週もかなり予定がつまっています。まあ、学期末はいつもこんな騒ぎなので慣れっこです。
プロの仕事がよいのはもちろんですが、学部二年生が作った30分ほどの「赤鬼」取手版が、野田秀樹演出のコピーに終わらず、オリジナルな視点を打ち出せたのは、素晴らしいことで、学生たちの前では、照れもあって隠していましたが、本当に心が動きました。巧くやりたいという欲望を乗り越えて、人の心を動かす作品となったときに、ようやく表現という衝動は、正面から肯定できるのだと思ったりしました。私自身の文章家としての行く末来し方を含め、さまざまなことを考えさせる舞台になりました。学生のみなさん、ご苦労さま。
気に掛かるのは参院選。今日明日と蜷川幸雄さんの追悼文(少し分量がある雑誌のための)があるので、今日のうちに投票に行ってこようかと思います。私の家は投票所に近いのだけが取り柄なので、雨でもさほど苦になりません。現与党は争点となるのを徹底して避けているようですが、結果によっては改憲に向けて国が大きく舵を切るかも知れない大事な選挙。考え抜いた結果を投票に行こうと思います。
それにしても、「国政に送りたい尊敬する候補者」などいるわけもなく、情勢を読みながら「最悪なシナリオにならないがための投票」になってしまうのは、なんとも情けないことです。ただ、情けないといって投票行動を放棄してしまうのは、事態を悪化させるだけだと思うので、気をとりなおして行って参ります。

2016年7月7日木曜日

【劇評54】中川晃教の節度。『ジャージー・ボーイズ』を観て。

 現代演劇劇評 平成二十八年七月 シアタークリエ

友人に「ミュージカルとはめずらしい」と云われてしまった。確かに、私はミュージカルの絶大な支持者とはいいがたい。演劇評論家の故扇田昭彦さんが『VIVA!ミュージカル』を上梓されたときの読書会で「長谷部さんはシリアスなものが好きなんでしょ」と釘を刺されたのを思い出す。確かに凡庸なミュージカルには興味がない。ロイド・ウェバーに熱心ではない。
それでもたまにはミュージカルを観る。特に、ブロードウェイやウェストエンドに行った時は話題の舞台は観るようにしている。とはいえ、観劇数も少ないし、専門家でもないからミュージカルの劇評を書いたのは、たぶん五本くらいだろうか。
この頃は大劇場ではなく中劇場でミュージカルを観る楽しみを知るようになった。今日は、有楽町のシアター・クリエで『ジャージー・ボーイズ』(マーシャル・ブリックマン、リック・エリス脚本、ボブ・ゴーリエ音楽 ボブ・クルー詞 小田島恒志訳 高橋亜子訳詞 藤田俊太郎演出)を観た。60年代のヴォーカル・グループ、ザ・フォーシーズンズの春夏秋冬を描いた作品だが、ニューヨークにほどちかいニュージャージー州に生まれ育った三人が、作曲の才にもめぐまれたボブと出会いスターになっていく過程がその裏側にあるネガティブな面も含めてえぐり出している。
周縁にいる者たちの成功への渇望、金銭と名声をえるためのツアー生活と引き替えに、家庭的な幸福を失っていく現実。紋切り型といえば紋切り型ではあるけれども、さまざまな局面で起きる事件とそれを受け止める生身の人間としてのスターが、すぐれた歌唱と身体によって表現されている。スターを演じることの厳しさが身に迫ってくる。
私が観たホワイトバージョンのメインキャストは、中川晃教のフランキー、中河内雅貴のトミー、海宝直人のボブ、福井晶一のニックだが、歌唱と身体ばかりではない、演劇として台詞を大切にし、不自然な誇張を避け、傷つきやすい心を抱え込んだ人間のありのままの姿が舞台にあった。
とりわけ中川の高音部での繊細な表現、そしてダンスのきまりの節度のよさは際立っている。さすがに主役を長く務めてきた力量は圧倒的だった。家族のために働く、家族から追放されるジレンマは、スターならずとも共有できる主題だと語るだけの説得力がある。
藤田俊太郎の演出は、よいキャストに助けられて、演技のみならず、視覚表現の細部まで手が届いている。課題をいえば、原作でふんだんな台詞を与えられていない女優陣により緻密に演技をつけていくところだろう。
中劇場の空間でこの水準のミュージカル俳優を味到する快感がここにはあった。