2016年7月7日木曜日

【劇評54】中川晃教の節度。『ジャージー・ボーイズ』を観て。

 現代演劇劇評 平成二十八年七月 シアタークリエ

友人に「ミュージカルとはめずらしい」と云われてしまった。確かに、私はミュージカルの絶大な支持者とはいいがたい。演劇評論家の故扇田昭彦さんが『VIVA!ミュージカル』を上梓されたときの読書会で「長谷部さんはシリアスなものが好きなんでしょ」と釘を刺されたのを思い出す。確かに凡庸なミュージカルには興味がない。ロイド・ウェバーに熱心ではない。
それでもたまにはミュージカルを観る。特に、ブロードウェイやウェストエンドに行った時は話題の舞台は観るようにしている。とはいえ、観劇数も少ないし、専門家でもないからミュージカルの劇評を書いたのは、たぶん五本くらいだろうか。
この頃は大劇場ではなく中劇場でミュージカルを観る楽しみを知るようになった。今日は、有楽町のシアター・クリエで『ジャージー・ボーイズ』(マーシャル・ブリックマン、リック・エリス脚本、ボブ・ゴーリエ音楽 ボブ・クルー詞 小田島恒志訳 高橋亜子訳詞 藤田俊太郎演出)を観た。60年代のヴォーカル・グループ、ザ・フォーシーズンズの春夏秋冬を描いた作品だが、ニューヨークにほどちかいニュージャージー州に生まれ育った三人が、作曲の才にもめぐまれたボブと出会いスターになっていく過程がその裏側にあるネガティブな面も含めてえぐり出している。
周縁にいる者たちの成功への渇望、金銭と名声をえるためのツアー生活と引き替えに、家庭的な幸福を失っていく現実。紋切り型といえば紋切り型ではあるけれども、さまざまな局面で起きる事件とそれを受け止める生身の人間としてのスターが、すぐれた歌唱と身体によって表現されている。スターを演じることの厳しさが身に迫ってくる。
私が観たホワイトバージョンのメインキャストは、中川晃教のフランキー、中河内雅貴のトミー、海宝直人のボブ、福井晶一のニックだが、歌唱と身体ばかりではない、演劇として台詞を大切にし、不自然な誇張を避け、傷つきやすい心を抱え込んだ人間のありのままの姿が舞台にあった。
とりわけ中川の高音部での繊細な表現、そしてダンスのきまりの節度のよさは際立っている。さすがに主役を長く務めてきた力量は圧倒的だった。家族のために働く、家族から追放されるジレンマは、スターならずとも共有できる主題だと語るだけの説得力がある。
藤田俊太郎の演出は、よいキャストに助けられて、演技のみならず、視覚表現の細部まで手が届いている。課題をいえば、原作でふんだんな台詞を与えられていない女優陣により緻密に演技をつけていくところだろう。
中劇場の空間でこの水準のミュージカル俳優を味到する快感がここにはあった。