2016年7月18日月曜日

【劇評55】猿之助の屈折、海老蔵の悪、中車の貫目

 歌舞伎劇評 平成十八年七月 歌舞伎座

海老蔵の持っているポテンシャルは、現在の歌舞伎役者のなかでも群を抜いている。とりわけ家の藝の荒事と実悪、色悪を演じるときに、ひときわ光彩を放つ。それはだれもが認めるところだろう。
七月歌舞伎座昼の部の『柳影澤蛍火 柳澤騒動』(宇野信夫作・演出 織田絋二補綴・演出)は、この海老蔵の才能の埋蔵量をよく意識した狂言となった。歌舞伎座では四十六年振りとあるが、三代目延若による国立劇場での初演と比べると、かなり整理がなされている。
それにもかかわらず、一幕目の浪宅の場、二幕目の桂昌院居間の場を冗長に感じてしまう。これは単に宇野の原作の責を問うわけにはいかない。『毛谷村』の六助でときに海老蔵が見せる善人めいた作り声にリアリティが欠けているからだ。
もっとも、東蔵の桂昌院には威厳があり、猿之助の隆光は曲者めいた屈折があり場を持たせた。中車の綱吉には犬公方とそしられるだけの狂気と弱さが備わっていた。
反面、四幕目、五幕目と悪に徹してからの海老蔵は、いよいよ輝きを増す。それに対して東蔵の桂昌院が死に際しての錯乱をみせるとき、いよいよ海老蔵の悪を際立たせる。「ご生母さま」と泣いてみせるときの冷ややかさが引き立つ。
海老蔵のポテンシャルも相手役があってのことで、腕や魅力がそなわった役者との共演が望まれる。
『流星』は、坂東流のやり方ではなく、沢潟屋らしく宙乗りまで見せ、空間の広がりがある。詞章を読んでもともと、上品で気取った踊りではない。猿之助が坂東流とは異なり面をつけての演じ分けも楽しく、雲の上の物語を軽く見せてほどがいい。(尾上)右近の織姫。巳之助の牽牛。
夜の部は、仁左衛門の名演で知られる『荒川の佐吉』(真山青果作 真山美保演出)。猿之助の佐吉、対となる弟分の辰五郎に巳之助。浪人の成川郷右衛門を海老蔵がつきあって、厚みのある芝居となった。
猿之助の当り役になるだろうと予感させるのは、なにより三下時代のみじめさ、卑屈さが手厚く描き出されているからだ。自らの境遇をひがんでいるからこそ、鍾馗の親分(猿弥)の娘で大家に嫁いだお新(笑也)の子を愛情を込めて育てている。その矛盾があからさまに出ていて、説得力がある。善行ではない。
この子育ては、佐吉のやむにやまれぬ生き方なのである。
それに対して人がよく、佐吉の生き方に共振している弟分の辰五郎もまたすぐれている。
この男は少しとろいのではないか。そう思わせて、懸命に生きている大工の性根をたんねんに描写していく。
第四幕、第一場。すでに成川を倒して大親分になった佐吉が、世話になった中車の又五郎に説得されるところがまたいい。
中車は苦渋を滲ませながらも、情理を説く。一歩も引かない男の貫禄で舞台を圧している。
この芝居でも昼の部の『柳澤騒動』と同じ事がいえる。猿之助もまた無人の一座での奮闘もいいが、海老蔵との対比があってこそ、猿之助本来の魅力が生きる。
それはひたむきな人間が、泪にくれるときの絶望ではなかったか。
続いて『壽三升景清』としてくくった『鎌髭』と『景清』。松岡亮の脚本、藤間勘十郎の演出・振付。荒事を演じさせて海老蔵が悪かろうはずがないが、『鎌髭』では祝祭劇を支えるだけの実質をそなえた役者が数少なくなっているのを感じさせた。
(市川)右近の猪熊入道は、これまでは演じてこなかった役柄だが、飄々たる味があり、なお軽くならずにおもしろく観た。
また、『景清』は、前回に上演のときも思ったが、海老蔵の登場が遅く、しかも太い格子にさえぎられ魅力が届かない。演出に新たな工夫が望まれる。二十六日まで。