2015年4月13日月曜日

【閑話休題8】平成中村座の劇評について

今月は浅草寺境内で平成中村座の公演が行われている。すでに二日目には観劇を済ませた。舞台の内容も意欲的なもので、このブログでも劇評を書いてみたいのだが、この公演に関しては雑誌演劇界から劇評を依頼されている。すでに原稿を書き終わって、ゲラを待っているタイミングだが、さて、このブログではどうしようか考えていた。
演劇界の劇評は四○○字詰原稿用紙八枚。十分とはいえないまでも、かなりの紙幅がとってある。このブログに劇評を書くと内容的にどうしても重複してしまう。歌舞伎の劇評を書き始めたのは、この演劇界あってのことなので、義理立てしたい。演劇界が発売になってから、形を変えて書くことも考えたが、まったく違った原稿を書けるかというと自信がない。
これからもこういったケースが起こると思うが、そのときどきで対処していきたい。場合によっては、雑誌とブログを並行させるときもあるかもしれません。とりあえず今月に関しては、今のところ、ブログに劇評を載せることをためらっています。どうぞ、ご理解をお願いしたいと思っています。

2015年4月12日日曜日

【劇評15】鴈治郎、渾身の襲名。『吉田屋』『河庄』

 【歌舞伎劇評】平成二十七年四月 歌舞伎座 鴈治郎、渾身の襲名。『吉田屋』『河庄』

團十郎、勘三郎、三津五郎の急逝を受けて、立役が払底している。現在の大立物、藤十郎、菊五郎、幸四郎、吉右衛門、仁左衛門が七十の坂を越えたこともある。今回の翫雀による鴈治郎襲名は、その大きな断絶を埋めるべき人が、ようやく名乗りを上げた感がある。
襲名の狂言は、昼の部が『吉田屋』。夜の部が『河庄』。いずれも成駒屋鴈治郎家の当たり狂言である。この二本に鴈治郎が全力で取り組んでいる。
まずは『吉田屋』翫堂の阿波のお大尽にとぼけた味があり、餅つきで場を盛り上げたところに、鴈治郎の藤屋伊左衛門が花道から笠をかぶったまま登場する。勿論、衣装は,本来は零落した表現だが、歌舞伎では贅を尽くしたあでやかな紙衣、金糸銀糸に彩られたこの着物が似合うかどうかがまず第一。〽冬編笠の垢張りて」。鴈治郎は七三のこなしが柔らかくなかなかの風情である。迎えるのは通例は若い者大勢だが、又五郎ひとりでこの旧来の客を拒むところに、幸四郎の喜左衛門が出て窮地を救う。鴈治郎が編み笠をとった瞬間、愁いがこぼれる。
喜左衛門の女房おきさは秀太郎。この夫婦が廓にも情があることをさりげなく伝えるのが、ファンタジーとしての『吉田屋』の根底にある。
仮寝のあとの嘆き、盃から酒をこぼして膝を濡らしたときの哀しさ、零落した男が正月とはいえ、冬の寒い夜、ひとり馴染みの花魁を待つ。そのよるべなき身の上が胸を打つ。
ようやく夕霧が座敷に来る。懐紙で覆った顔を現したとき、最長老となったにもかかわらず、まごうことなく華がこぼれる。ここからは、駄々っ子のような伊左衛門と哀しみに暮れる夕霧のやりとりとなる。鴈治郎の愛嬌、藤十郎の一途な様子。長煙管を使ってのキマリもよい。一転してふたりが仲直りし、勘当が解けて身請けの金が届き、大団円となる。千両箱が積み上がっていく様子はご陽気で、いかにもめでたい襲名にふさわしい。常磐津は一佐太夫。三味線は一寿郎。
夜の部は『河庄』。風情だけで物語らしい物語のない『吉田屋』より、現在の鴈治郎にとっては与しやすい狂言だろう。
天満屋の丁稚三五郎は、虎之介。薄幸な紀伊國屋小春は芝雀。まずは、このふたりのやりとりが弾むが、明るさのなかにもしめやかな心持ちが感じられるのは、やはり、立女形の風格を備えつつある芝雀の地力があってのことだ。敵役の江戸屋太兵衛に染五郎、五貫屋善六に壱太郎。役の性根を踏まえて、チャリを含むが、なかなかいやらしい二人組だ。染五郎は既にこうした役柄を得意としているが、壱太郎は藝域の広さを示す。『碁盤太平記』の大石主税、『石切梶原』の梢、『石橋』の獅子の精とこの興行では大活躍で、いずれも穴がない。鴈治郎の襲名とともに、壱太郎のお披露目ともなっている。
加えて、粉屋孫右衛門の梅玉が出色の出来。武士に身をやつしているが、刀を置き忘れてふっとみせる身体のこなし、ちょっとした含羞はこの人ならではのもの。舞台が暖まっているから、鴈治郎も花道から出やすいだろう。
〽魂抜けてとぼとぼと」竹本に合わせて、ほっかむりした鴈治郎の紙屋治兵衛が身も心も虚ろになって歩いてくる。立ち止まり、足元を見る、右手で着物の裾をとる。型があって、なお自在でありたい上方狂言の役の後継者としての地力を示した。
紙屋治兵衛は、女房のおさんとのあいだに子をもうけながらも、新地の遊女小春となじみとなり、身動きがとれなくなる。治兵衛と小春は心中を覚悟しているが、おさんから手紙をもらった小春は縁切りを覚悟する。そこへ弟の身を案じた孫右衛門が侍となってやってきた。
ここからは、小春との別れを迫る孫右衛門と、未練をあからさまに嫉妬さえ見せる治兵衛の芝居となる。兄弟の相克を芝雀の小春は、細やかな受けの芝居を見せる。左の手で右の胸を押さえる仕草、ほつれ髪をいとう仕草、いずれも哀しみにうちひしがれた苦界の女の哀感がにじむ。勤めのなかにも実(ジツ)のある女のありようが胸を打つ。
鴈治郎は、三年ごしの小春とのゆききを兄に問わず語りに語る件りがいい。なんともやるせない男の未練を恥ずかしがることなく貫いてリアルであった。こうした心性は江戸と平成の隔たりはない。人間のどうしようもない苦しみ、哀しみに芝居が届いている。廓から立ち去る時がくる。花道の七三に座り込んでの断腸。初役にして十分な出来である。
廓に取り残された小春は襦袢の袖を口に噛んで嗚咽を耐える。その紅絹の色が目にしみた。
他に扇雀、染五郎、孝太郎、東蔵による『碁盤太平記』。大立物が連なる『六歌仙』。幸四郎、錦之助、高麗蔵、彦三郎の『石切梶原』。幹部勢揃いの『成駒屋歌舞伎賑』。染五郎、壱太郎、虎之介の『石橋』が出た。二六日まで。

2015年4月11日土曜日

【閑話休題7】蜷川幸雄の不屈

不屈の精神という言葉がある。
なにやら右翼がかった精神論だとばかり思っていた。
けれど、シェイクスピア作、蜷川幸雄演出の『リチャード二世』を観て、
どんなことがあっても、人は立ち上がらなければいけない。
その宿命を負って人は生きていると思った。
演出家が病におかされ、車椅子にあるからではない。
リチャード二世が、あらゆる障害、あらゆる中傷、あらゆる絶望のなかに、
ひとり泥濘のなかに立った杭のように生きている作品だからだ。
私たちはこのようにして世の中に突っ立っていることができるのだろうか。
考えに沈んだ。

2015年4月6日月曜日

【劇評14】特異と普遍 蜷川幸雄演出『リチャード二世』

【現代演劇劇評】二〇一五年四月 彩の国さいたま芸術劇場インサイドシアター
蜷川幸雄演出『リチャード二世』
『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』など、私たちの現在に突き刺さる秀作を生み出してきた、さいたまネクスト・シアターが、シェイクスピアの『リチャード二世』(松岡和子訳)に挑み、またしても傑出した舞台を生み出した。演出は蜷川幸雄。今回は、ネクストに加えて、五十五歳以上の俳優を擁するゴールド・シアターが加わっている。
劇の冒頭、ゴールドの俳優たちは、舞台奥の暗闇から車椅子に乗り、コの字型に組まれた客席へ向かって押し出してくる。その後ろに従うのは、ネクストの俳優たち。男性は、紋付き袴、女性は色留袖。礼服をまとった老若男女が迫ってくる。ル・クンパルシータが流れる。アルゼンチンタンゴを代表する楽曲である。ダンスが高まると、ゴールドの俳優たちは立ち上がり、ネクストの俳優と男女ペアを組んで扇情的にタンゴを踊る。老齢の男性と若い女性。若い男性と老齢の女性の組み合わせだ。一種、異様な光景である。劇空間全体を埋め尽くした人間たち、踊りに身をゆだねる老人と若者。そして、男性二人が紋付き袴を脱ぐと下はモーニング。ふたりのタンゴがはじまる。タンゴの性格もあってエロティックな空気が空間を支配する。生とは猥雑にして神聖ではないかと、演出家は冒頭の場面から観客に叩きつける。
イングランド王リチャード(内田健司)は、反逆を企てたとお互いをそしり合うヘンリー・ボリングフィールド(竪山隼太)とトーマス・モブレー(堀源起)をともどもに追放する。ボリングフィールドの父ジョン・オヴ・ゴーント(*葛西弘)が亡くなると、アイルランドとの戦費にあてるために、その財産を理由なく没収する。六年間の追放処分に処せられたにも関わらず、怒りに燃えたボリングフィールドは兵を挙げて、お追従をいう取り巻きに囲まれたリチャードを退位に追い込む。やがてポンフレット城に監禁されたリチャードは、神聖なる王位と生身の人間、その双方を生きる人間存在を厳しく問い詰める。
蜷川演出の特質は、リチャード王がゲイであることを、避けず、怖れず、まっすぐに、そして象徴的に描き出したところにある。劇の随所にリチャードは貴族たちとふたりでタンゴを踊る。冒頭のシーンとは異なり、このふたりのタンゴは上半身裸で踊られる。モーニングのジャケットと白いシャツをはぎ取ると、サスペンダーにかろうじて覆われた肌が現れる。ここでは舞踊すなわちセックスであり、リチャードが王でありながら、呼吸し、ものを食べ、寝床で眠り、そしてセックスをする生身の人間であることが指し示される。そして、友人を必要としているが、いない。なぜなら、不幸なことにこのセックスを結ぶ関係さえも、王の権力と抜き差しがたく結びついているからだ。
また、リチャードは宗教的な哲学者でもある。二場、戯曲の指定では ウェールズの海岸とされている。この場面を蜷川は、歌舞伎の浪布に似た布を床面でダイナミックに動かし、そのなかでリチャードのモノローグやオーマール(竹田和哲)の励まし、スクループ(高橋英希)の報告などが語られる。彼らは波にもまれ、蠢いている。自然の抗いがたい力には、王であろうとも打ち勝つことはできない。人間の運命に翻弄されているかのようだ。
さらに、第四幕第一場、ロンドン、ウェストミンスター教会でのリチャードが王冠と王笏を失う場面で、いかにこの王権を象徴する物質たちがはかなく、浮遊するものであるかを視覚化した。
リチャードの宗教的な哲学が凝縮して語られるのは、第四幕の第五場だが、そこで照明(岩品武顕)は、床面に光の十字架を刻印する。裸体となったリチャードは、白い腰布ひとつで十字架に磔となる。王の特権に溺れて、乱費を繰り返した王が、王冠と王笏を手放した末に、磔刑されたキリストに転生する。俗世間と神の国、この地獄と天国がひとつらなりになっている人の世の不思議が胸を打つ。
「私は時を浪費した、そしていま、時が私を浪費している。/時は私を時計にし、時を刻ませる。/一分、一分が私の思考だ、私の目は文字盤だ、/私という時計は夜も休まず動き続け、/私が溜息を一つ吐くたびに/ちょうど時計の針がカチッと動くように、/指が目もとに来て涙をぬぐう」
こうした困難な劇を立ち上がらせたのは、リチャード二世を演じた内田健司の肉体のありようであった。針金のような肉体に、貴重でかけがえのない精神が宿っている。よこしまな欲望の裏側には、気高い情理が隠されている。性に暴走しても、澄み渡った思考はひとつの身体に同居している。そんな二律背反したリチャードを見事に体現していた。
特異であることが、かえって普遍性を持つ。オペラ歌手やバレリーナや歌舞伎俳優を例にあげるまでもない。美を宿した肉体とは、ある種の畸形なのではないかと考えさせられた。
また、ネクストの俳優だが、メイクで老け作りをして車椅子に乗り、ゴールドの俳優に化け通したヨーク公爵エドマンド・ラングレーの松田信也、ノーサンバランド公爵の手打隆盛の手堅い演技も、劇を底支えしていた。
脇筋も観客の胸を熱く動かした。王妃でありながら、真実の愛からは見放されたかにみえるイザベル(長内映里香)の気品と情熱。王となったボリングフィールド殺害計画に加わった息子のオーマールを守ろうと必死に嘆願するヨーク侯爵夫人(*百元夏繪)の母性。リチャードの破滅を語る庭師たち(*遠山陽一、*小川喬也)の滑稽。
すぐれた演出が俳優を着実に成長させた。遠く見えた次の階段を、大きな踏み足で俳優の多くが昇ったとわかる。
幕切れ、冒頭のシーンが繰り返される。礼装の群衆がまたしても客席に迫ってくる。
この三時間に及ぶ劇を経て、同じ場面が別の意味をもって見えてくる。何度か床面に投影された丸い地球の映像が記憶にすり込まれていることもあるのだろう。
国境、性別、年代を超えた人類は、破滅へと向かって、今も、刻々と、絶望的な旅を続けている。人類の歴史はどこまで続くのか。切り立った崖はもう間近に迫っている。
(*印はゴールドシアターの俳優。無印はネクストシアターの俳優)http://saf.or.jp/arthall/stages/detail/2040