【現代演劇劇評】二〇一五年四月 彩の国さいたま芸術劇場インサイドシアター
蜷川幸雄演出『リチャード二世』
『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』など、私たちの現在に突き刺さる秀作を生み出してきた、さいたまネクスト・シアターが、シェイクスピアの『リチャード二世』(松岡和子訳)に挑み、またしても傑出した舞台を生み出した。演出は蜷川幸雄。今回は、ネクストに加えて、五十五歳以上の俳優を擁するゴールド・シアターが加わっている。
劇の冒頭、ゴールドの俳優たちは、舞台奥の暗闇から車椅子に乗り、コの字型に組まれた客席へ向かって押し出してくる。その後ろに従うのは、ネクストの俳優たち。男性は、紋付き袴、女性は色留袖。礼服をまとった老若男女が迫ってくる。ル・クンパルシータが流れる。アルゼンチンタンゴを代表する楽曲である。ダンスが高まると、ゴールドの俳優たちは立ち上がり、ネクストの俳優と男女ペアを組んで扇情的にタンゴを踊る。老齢の男性と若い女性。若い男性と老齢の女性の組み合わせだ。一種、異様な光景である。劇空間全体を埋め尽くした人間たち、踊りに身をゆだねる老人と若者。そして、男性二人が紋付き袴を脱ぐと下はモーニング。ふたりのタンゴがはじまる。タンゴの性格もあってエロティックな空気が空間を支配する。生とは猥雑にして神聖ではないかと、演出家は冒頭の場面から観客に叩きつける。
イングランド王リチャード(内田健司)は、反逆を企てたとお互いをそしり合うヘンリー・ボリングフィールド(竪山隼太)とトーマス・モブレー(堀源起)をともどもに追放する。ボリングフィールドの父ジョン・オヴ・ゴーント(*葛西弘)が亡くなると、アイルランドとの戦費にあてるために、その財産を理由なく没収する。六年間の追放処分に処せられたにも関わらず、怒りに燃えたボリングフィールドは兵を挙げて、お追従をいう取り巻きに囲まれたリチャードを退位に追い込む。やがてポンフレット城に監禁されたリチャードは、神聖なる王位と生身の人間、その双方を生きる人間存在を厳しく問い詰める。
蜷川演出の特質は、リチャード王がゲイであることを、避けず、怖れず、まっすぐに、そして象徴的に描き出したところにある。劇の随所にリチャードは貴族たちとふたりでタンゴを踊る。冒頭のシーンとは異なり、このふたりのタンゴは上半身裸で踊られる。モーニングのジャケットと白いシャツをはぎ取ると、サスペンダーにかろうじて覆われた肌が現れる。ここでは舞踊すなわちセックスであり、リチャードが王でありながら、呼吸し、ものを食べ、寝床で眠り、そしてセックスをする生身の人間であることが指し示される。そして、友人を必要としているが、いない。なぜなら、不幸なことにこのセックスを結ぶ関係さえも、王の権力と抜き差しがたく結びついているからだ。
また、リチャードは宗教的な哲学者でもある。二場、戯曲の指定では ウェールズの海岸とされている。この場面を蜷川は、歌舞伎の浪布に似た布を床面でダイナミックに動かし、そのなかでリチャードのモノローグやオーマール(竹田和哲)の励まし、スクループ(高橋英希)の報告などが語られる。彼らは波にもまれ、蠢いている。自然の抗いがたい力には、王であろうとも打ち勝つことはできない。人間の運命に翻弄されているかのようだ。
さらに、第四幕第一場、ロンドン、ウェストミンスター教会でのリチャードが王冠と王笏を失う場面で、いかにこの王権を象徴する物質たちがはかなく、浮遊するものであるかを視覚化した。
リチャードの宗教的な哲学が凝縮して語られるのは、第四幕の第五場だが、そこで照明(岩品武顕)は、床面に光の十字架を刻印する。裸体となったリチャードは、白い腰布ひとつで十字架に磔となる。王の特権に溺れて、乱費を繰り返した王が、王冠と王笏を手放した末に、磔刑されたキリストに転生する。俗世間と神の国、この地獄と天国がひとつらなりになっている人の世の不思議が胸を打つ。
「私は時を浪費した、そしていま、時が私を浪費している。/時は私を時計にし、時を刻ませる。/一分、一分が私の思考だ、私の目は文字盤だ、/私という時計は夜も休まず動き続け、/私が溜息を一つ吐くたびに/ちょうど時計の針がカチッと動くように、/指が目もとに来て涙をぬぐう」
こうした困難な劇を立ち上がらせたのは、リチャード二世を演じた内田健司の肉体のありようであった。針金のような肉体に、貴重でかけがえのない精神が宿っている。よこしまな欲望の裏側には、気高い情理が隠されている。性に暴走しても、澄み渡った思考はひとつの身体に同居している。そんな二律背反したリチャードを見事に体現していた。
特異であることが、かえって普遍性を持つ。オペラ歌手やバレリーナや歌舞伎俳優を例にあげるまでもない。美を宿した肉体とは、ある種の畸形なのではないかと考えさせられた。
また、ネクストの俳優だが、メイクで老け作りをして車椅子に乗り、ゴールドの俳優に化け通したヨーク公爵エドマンド・ラングレーの松田信也、ノーサンバランド公爵の手打隆盛の手堅い演技も、劇を底支えしていた。
脇筋も観客の胸を熱く動かした。王妃でありながら、真実の愛からは見放されたかにみえるイザベル(長内映里香)の気品と情熱。王となったボリングフィールド殺害計画に加わった息子のオーマールを守ろうと必死に嘆願するヨーク侯爵夫人(*百元夏繪)の母性。リチャードの破滅を語る庭師たち(*遠山陽一、*小川喬也)の滑稽。
すぐれた演出が俳優を着実に成長させた。遠く見えた次の階段を、大きな踏み足で俳優の多くが昇ったとわかる。
幕切れ、冒頭のシーンが繰り返される。礼装の群衆がまたしても客席に迫ってくる。
この三時間に及ぶ劇を経て、同じ場面が別の意味をもって見えてくる。何度か床面に投影された丸い地球の映像が記憶にすり込まれていることもあるのだろう。
国境、性別、年代を超えた人類は、破滅へと向かって、今も、刻々と、絶望的な旅を続けている。人類の歴史はどこまで続くのか。切り立った崖はもう間近に迫っている。
(*印はゴールドシアターの俳優。無印はネクストシアターの俳優)http://saf.or.jp/arthall/stages/detail/2040