【現代演劇劇評】一九七八年に日生劇場で『ハムレット』(シェイクスピア作)を初演出してから三十六年あまりが過ぎた。このときハムレットを演じた平幹二朗が今回はクローディアスに回り、ガートルードには鳳蘭を迎えた。こうした難かしい役に輝かしい主役を演じてきた平、鳳を配したために、二〇一五年のハムレットは世代間の対立を鮮明に打ち出す演出となった。
ハムレットを演じるのは藤原竜也、オフーェーリアは満島ひかり、レアーティーズは満島真之介と現在、最高水準の配役だろう。なかでも藤原竜也は青年の性急さよりは、激情と思慮のただなかで煩悶する三十歳を演じている。学者として、武人として、そして王子として世界の全体を引き受け、解釈しようとする個人のまっとうなありようが伝わってきた。
先王を殺した弟クローディアスは王位を簒奪し、王妃ガードルードと結ばれている。その腐臭に満ちた関係を描き出すために、蜷川演出は年かさの俳優の肉体をあえてさらけ出してみせる。上演中のために詳しくは書かないが、年齢のために避けられない肉体の衰えを隠すことを許さない。権力や色欲が醜いのではない。衰えた肉体にこそその醜さがふさわしいのだと語りかけているかのようだ。
それに対して、藤原の引き締まった肉体とほとばしる汗はひたすらな生を感じさせ美しい。また、痩身にして柳のような満島ひかりの輝かしさ、そして満島真之介の鋼のような肉体には純情と意志が宿っている。
成熟した青年と落日の老年が、決して混じり合わない絶望的な日々をともにするとき、悲劇が起きるのだった。
今回の上演では、樋口一葉原作、蜷川演出の『にごり江』などで使われた長屋のセットが舞台一杯にしつらえられている。思えば、菊坂下の一葉は明治を絶望的に生きた。明治期にハムレットがはじめて上演されたときの稽古という設定だが、ここではメタシアターの意味はさほど強調されない。むしろ、性急な近代化、西欧化のひずみのなかで、明治から平成へとひた走ってきた日本の醜く、老いさらばえた姿がこの朝倉摂による装置と重なり合う。もはや日本そのものが活力を失い、ぼろぼろになってようやく立っているとこの作品全体が告げている。
このデンマーク王国=日本の頽廃を打ち破ろうとして立ち現れるのは、内田健司が演じるフォーテンブラスであった。ハムレットの遺言によってこの国の指揮をとるのは、半裸体の細く針金のような身体であった。
蜷川幸雄演出の『ハムレット』の演出は初演の階段状の装置で知られ、幕切れ階段をよじのぼろうとする廷臣達を描き出してきた。権力構造を鮮やかに示した演出だが、二○一二年のさいたまネクストシアターによる『ハムレット』では、ガラス張りの床を作り、こうした上方への一方的な権力構造を破壊して見せた。今回の演出ではフォーテンブラスを上方には置くが、あまりにも危うい木造の長屋の二階にすぎない。そのガラス戸のなかで、最速のインターネット環境で世界とつながっている内向的な青年の姿が浮かび上がってきた。彼らが世界を変えるのか。変えるとすれば、それは肉体の暴力ではなく、情報戦のかたちをとるのだろうか。示唆に富んだ幕切れは、おそらくだれも予想できなかったろう。河合祥一郎訳。
2015年1月25日日曜日
2015年1月12日月曜日
【劇評3】 八犬伝の季節 平成二十七年一月 国立劇場
【歌舞伎劇評】平成二十七年一月 国立劇場
恒例の菊五郎劇団による正月興行である。
菊五郞のお正月は肩の凝らない狂言をという方針があって、国立劇場では古典の通しではなく、復活狂言に名をかりた創作を試みてきた。近年では『二蓋柳生実記』(平成十五年十二月)、『噂音菊柳澤騒動』(平成十六年十一月)、『曽我梅菊念力弦』(平成十八年一月)、『梅初春五十三驛』(平成十九年一月)『小町村芝居正月』(平成二十年一月)、『遠山桜天保日記』(平成二十一年十二月)、『旭輝黄金鯱』(平成二十二年一月)、『開幕鷺奇復讐譚』(平成二十三年十月)『夢市男達競』(平成二十五年一月)、『三千両初春駒曳』(平成二十六年一月)と続く。
当然のことながら、長らく上演されなかった演目には、なんらかの傷がある。複雑すぎる筋立て、今となっては趣向倒れとしか思えぬひねり。国立劇場の文芸課が中心になって、菊五郞の監修のもとに案を練ってきたが、『旭輝黄金鯱』あたりからいかにも苦しく、この路線が限界に来ているのは明らかだった。
こうした菊五郎劇団と国立劇場の歩みを受けて、今年の正月は『南総里見八犬伝』が通しで出た。この作品は、平成二十三年御園座、平成二十四年浅草公会堂、平成二十五年松竹座の上演例があり、それほどめずらしいものではない。滝沢馬琴作、渥美清太郎脚色とクレジットにあるように、昭和二十二年九月帝国劇場で上演されたときの渥美本が底本となっている。
今回の上演では、それぞれの場面に季節感を濃厚に盛り込んだのが特色となる。正月だからといって冬の情景にこだわるのではなく、各場面の変わり目を強調するために、春夏秋冬を通し狂言でたどる。
「蟇六内」を正月、「円塚山」を雪のなかで描き、「成氏館」「芳流閣」を春に、新たな創作といえる「古奈屋」を夏として、「対牛楼」は秋の紅葉、「白井城下」は春の桜という趣向である。
濃厚なドラマは不在である。八犬士の誕生と離散、そして再会。御家再興のための奮闘を描くシンプルきわまりないスペクタクルだが、季節を盛り込んだことで単調な立廻りの連続から逃れた。
菊之助の信乃を芯として、松緑の現八と小文吾の亀三郎。三者三様の個性が際立つ。
菊之助は国立劇場昨年十二月の『伊賀道中双六』の志津馬に続いて、水もしたたるような二枚目ぶりである。
立廻りでも踊りで鍛え抜いた身体が生きて、揺るぎない。
馬琴の読本が原作の芝居、スペクタクルを成り立たせる役者の身体にキレがあればよいではないかといわれれば、返す言葉もない。
ただし、スペクタクルといっても、役者の工夫によって、その場その場の芝居を作り込んでいく意志は大切である。
たとえば「蟇六内」のなかばで、蟇六(團蔵)夫婦に養われた信乃(菊之助)は、御家再興の志を胸に出立する場面がある。信乃を慕う浜路(梅枝)と志をひとつにする犬川荘助(亀寿)に見送られて蟇六の家を去る。ここにはらりと雪が降りかかる。「円塚山」の雪を予感させるほのかな雪の別れだが、突然の雪を受けての芝居が考えられていない。この別れの場面にこなしと思い入れが不十分なために、ひとときとはいえ悲しい別れが芝居になっていない。気、右之助、亀寿ばかりではない。梅枝の進境が著しいのは衆目の一致するところだが、まだまだ、工夫の余地がある。私が観たのは初日からまもない六日だったので、すでにこの場面は練り上げられていると思うが、定まった型のないこうした『南総里見八犬伝』のような芝居では、それぞれの役者が気を入れて場面を創り上げる意志がなければ、単なる段取りに流れてしまう。こうした細部に芝居の命が宿っているのを忘れてはならない。
また、今回創作された「古奈屋裏手の場」だた、菊之助の信乃は、場の頭から武張った様子が強すぎる。「芳流閣」の大胆な立廻りから川に落ち、行徳の片田舎で病をいやしている世話場なのだから、この場の前半は、よりやつれを強調して、流浪の身を浮かび上がらせたい。後半、現八(松緑)が登場して「芳流閣」で争ったふたりが協力を誓い合ってから、武士の様子を強く打ち出したい。
今回の上演では、菊五郞、左團次、時蔵が上置きのような位置づけで、世代交代を行った。松緑、菊之助とともに、亀三郎、亀寿、梅枝、(尾上)右近、萬太郎らが活躍している。特に小文吾の亀三郎は、「対牛楼」で磔りつけになるなど見せ場も多い。先行する亀三郎、亀寿世代の集中と精進があってこそ、複数の主人公が舞台上を駆け回る通し狂言が盛り上がる。より奮起を期待したいと思う。二十七日まで。
恒例の菊五郎劇団による正月興行である。
菊五郞のお正月は肩の凝らない狂言をという方針があって、国立劇場では古典の通しではなく、復活狂言に名をかりた創作を試みてきた。近年では『二蓋柳生実記』(平成十五年十二月)、『噂音菊柳澤騒動』(平成十六年十一月)、『曽我梅菊念力弦』(平成十八年一月)、『梅初春五十三驛』(平成十九年一月)『小町村芝居正月』(平成二十年一月)、『遠山桜天保日記』(平成二十一年十二月)、『旭輝黄金鯱』(平成二十二年一月)、『開幕鷺奇復讐譚』(平成二十三年十月)『夢市男達競』(平成二十五年一月)、『三千両初春駒曳』(平成二十六年一月)と続く。
当然のことながら、長らく上演されなかった演目には、なんらかの傷がある。複雑すぎる筋立て、今となっては趣向倒れとしか思えぬひねり。国立劇場の文芸課が中心になって、菊五郞の監修のもとに案を練ってきたが、『旭輝黄金鯱』あたりからいかにも苦しく、この路線が限界に来ているのは明らかだった。
こうした菊五郎劇団と国立劇場の歩みを受けて、今年の正月は『南総里見八犬伝』が通しで出た。この作品は、平成二十三年御園座、平成二十四年浅草公会堂、平成二十五年松竹座の上演例があり、それほどめずらしいものではない。滝沢馬琴作、渥美清太郎脚色とクレジットにあるように、昭和二十二年九月帝国劇場で上演されたときの渥美本が底本となっている。
今回の上演では、それぞれの場面に季節感を濃厚に盛り込んだのが特色となる。正月だからといって冬の情景にこだわるのではなく、各場面の変わり目を強調するために、春夏秋冬を通し狂言でたどる。
「蟇六内」を正月、「円塚山」を雪のなかで描き、「成氏館」「芳流閣」を春に、新たな創作といえる「古奈屋」を夏として、「対牛楼」は秋の紅葉、「白井城下」は春の桜という趣向である。
濃厚なドラマは不在である。八犬士の誕生と離散、そして再会。御家再興のための奮闘を描くシンプルきわまりないスペクタクルだが、季節を盛り込んだことで単調な立廻りの連続から逃れた。
菊之助の信乃を芯として、松緑の現八と小文吾の亀三郎。三者三様の個性が際立つ。
菊之助は国立劇場昨年十二月の『伊賀道中双六』の志津馬に続いて、水もしたたるような二枚目ぶりである。
立廻りでも踊りで鍛え抜いた身体が生きて、揺るぎない。
馬琴の読本が原作の芝居、スペクタクルを成り立たせる役者の身体にキレがあればよいではないかといわれれば、返す言葉もない。
ただし、スペクタクルといっても、役者の工夫によって、その場その場の芝居を作り込んでいく意志は大切である。
たとえば「蟇六内」のなかばで、蟇六(團蔵)夫婦に養われた信乃(菊之助)は、御家再興の志を胸に出立する場面がある。信乃を慕う浜路(梅枝)と志をひとつにする犬川荘助(亀寿)に見送られて蟇六の家を去る。ここにはらりと雪が降りかかる。「円塚山」の雪を予感させるほのかな雪の別れだが、突然の雪を受けての芝居が考えられていない。この別れの場面にこなしと思い入れが不十分なために、ひとときとはいえ悲しい別れが芝居になっていない。気、右之助、亀寿ばかりではない。梅枝の進境が著しいのは衆目の一致するところだが、まだまだ、工夫の余地がある。私が観たのは初日からまもない六日だったので、すでにこの場面は練り上げられていると思うが、定まった型のないこうした『南総里見八犬伝』のような芝居では、それぞれの役者が気を入れて場面を創り上げる意志がなければ、単なる段取りに流れてしまう。こうした細部に芝居の命が宿っているのを忘れてはならない。
また、今回創作された「古奈屋裏手の場」だた、菊之助の信乃は、場の頭から武張った様子が強すぎる。「芳流閣」の大胆な立廻りから川に落ち、行徳の片田舎で病をいやしている世話場なのだから、この場の前半は、よりやつれを強調して、流浪の身を浮かび上がらせたい。後半、現八(松緑)が登場して「芳流閣」で争ったふたりが協力を誓い合ってから、武士の様子を強く打ち出したい。
今回の上演では、菊五郞、左團次、時蔵が上置きのような位置づけで、世代交代を行った。松緑、菊之助とともに、亀三郎、亀寿、梅枝、(尾上)右近、萬太郎らが活躍している。特に小文吾の亀三郎は、「対牛楼」で磔りつけになるなど見せ場も多い。先行する亀三郎、亀寿世代の集中と精進があってこそ、複数の主人公が舞台上を駆け回る通し狂言が盛り上がる。より奮起を期待したいと思う。二十七日まで。
2015年1月11日日曜日
【劇評2】 舞台上にあること 平成二十七年一月 歌舞伎座夜の部
【歌舞伎劇評】 平成二十七年一月 歌舞伎座夜の部
吉右衛門の青山播磨による『番町皿屋敷』は、昨年の公文協中央コースで出た芝居である。
前半のみどころは芝雀のお菊が、恋仲にある播磨に縁談が起こったことを嫉妬して、あえて皿を割る件にある。芝雀は焦れたり、怒ったり、拗ねたりするこの役の揺れ動く心情を明解に描写していく。いったん皿を箱にしまってから紐を掛け、立ち上がってから気持ちを変えてふたたび皿を取り出し「えゝ、もういっそのこと」と柱に打ちつけて割ってしまう。
段取りに終わらず、衝動にまかせて割ったものの取り返しのつかないことをしでかしてしまった動揺までもがありありと映し出された。
吉右衛門の播磨は颯爽たる若武者である。
愛するお菊の気持ちの上での裏切りを許せない。まずは粗相であれば許すとする懐の深さを軽みのある芝居でみせる。橘三郎の十太夫に報告を受けて、お菊が播磨の本心を試すために皿を割ったとわかってからの炸裂する怒りの切っ先の鋭さ。いずれも若い世代ならではの純粋さがこもっていて説得力がある。「疑われた播磨の無念は晴れぬ」と言い切ってお菊を手に掛けるのも情にからまず、きっぱりとしている。町奴との諍いに鎗を取って駆けだしていく姿に匂い立つような色気があった。
一座総出演の『女暫』。玉三郎の巴御前、歌六の蒲冠者範頼、又五郎の鯰がいいのはもちろんだが、注目すべきは七之助の女鯰でなんともほどがよく、しかも舞台をきっちりと詰めている。こうした役はしどころを勤めるだけではなく、舞台上のありかたに要諦があるが、七之助が「演じる」のではなく「舞台にいる」ことの大切さをよく理解しているのがわかった。曽我物の大磯の虎を大一座で観てみたいと思う。
夜の部の切り狂言は、猿之助による『黒塚』。歌舞伎座開場以来はじめての出勤だが、そのこと自体をあげつらうのは意味がない。襲名以来、座頭としての風格を備えてきた猿之助の舞踊を楽しみたい。
結論から言えば、技巧を駆使し、きっちりと踊っているのはいいが、いかにも小さくまとまり過ぎている。この老女岩手実は安達原の鬼女は、あくまで超自然的な存在として舞台上にありたい。強力はもとより山伏、阿闇梨らも所詮は人間界に属する。俗な人間にすぎない。彼らがもつ常識をあざわらうかのように、人間をくらいつくす怪異を観たい。猿之助の鬼女は、巧くおどるがゆえに、等身大の役者が見え隠れしてしまっている。舞台上で怪異であることのむずかしさについて考えさせられた。二十六日まで。
吉右衛門の青山播磨による『番町皿屋敷』は、昨年の公文協中央コースで出た芝居である。
前半のみどころは芝雀のお菊が、恋仲にある播磨に縁談が起こったことを嫉妬して、あえて皿を割る件にある。芝雀は焦れたり、怒ったり、拗ねたりするこの役の揺れ動く心情を明解に描写していく。いったん皿を箱にしまってから紐を掛け、立ち上がってから気持ちを変えてふたたび皿を取り出し「えゝ、もういっそのこと」と柱に打ちつけて割ってしまう。
段取りに終わらず、衝動にまかせて割ったものの取り返しのつかないことをしでかしてしまった動揺までもがありありと映し出された。
吉右衛門の播磨は颯爽たる若武者である。
愛するお菊の気持ちの上での裏切りを許せない。まずは粗相であれば許すとする懐の深さを軽みのある芝居でみせる。橘三郎の十太夫に報告を受けて、お菊が播磨の本心を試すために皿を割ったとわかってからの炸裂する怒りの切っ先の鋭さ。いずれも若い世代ならではの純粋さがこもっていて説得力がある。「疑われた播磨の無念は晴れぬ」と言い切ってお菊を手に掛けるのも情にからまず、きっぱりとしている。町奴との諍いに鎗を取って駆けだしていく姿に匂い立つような色気があった。
一座総出演の『女暫』。玉三郎の巴御前、歌六の蒲冠者範頼、又五郎の鯰がいいのはもちろんだが、注目すべきは七之助の女鯰でなんともほどがよく、しかも舞台をきっちりと詰めている。こうした役はしどころを勤めるだけではなく、舞台上のありかたに要諦があるが、七之助が「演じる」のではなく「舞台にいる」ことの大切さをよく理解しているのがわかった。曽我物の大磯の虎を大一座で観てみたいと思う。
夜の部の切り狂言は、猿之助による『黒塚』。歌舞伎座開場以来はじめての出勤だが、そのこと自体をあげつらうのは意味がない。襲名以来、座頭としての風格を備えてきた猿之助の舞踊を楽しみたい。
結論から言えば、技巧を駆使し、きっちりと踊っているのはいいが、いかにも小さくまとまり過ぎている。この老女岩手実は安達原の鬼女は、あくまで超自然的な存在として舞台上にありたい。強力はもとより山伏、阿闇梨らも所詮は人間界に属する。俗な人間にすぎない。彼らがもつ常識をあざわらうかのように、人間をくらいつくす怪異を観たい。猿之助の鬼女は、巧くおどるがゆえに、等身大の役者が見え隠れしてしまっている。舞台上で怪異であることのむずかしさについて考えさせられた。二十六日まで。
【劇評1】 人間の暗部 平成二十七年一月 歌舞伎座昼の部
【歌舞伎劇評】 平成二十七年一月 歌舞伎座昼の部
新春の『壽初春大歌舞伎』は、おめでたい気分とは裏腹に人間の暗部を描いた狂言が並ぶ。
夜の部は『金閣寺』から。染五郎の松永大膳、勘九郎の此下東吉後に久吉、そして七之助の雪姫の顔合わせだが、新しい世代の台頭を感じさせる一幕となった。
染五郎は松永大膳の「国崩し」としての格をそなえる。本来の仁はこの役に必ずしも合っていない。それにもかかわらず荒れ狂う狂気さえ感じさせるのは、昨年『勧進帳』の弁慶をこの歌舞伎座で一月勤めた自信がもたらしたものか。
勘九郎の東吉がまた颯爽たる捌き役を水際だった口跡で見せる。才に走らず、胆力を見せる芝居で父勘三郞の藝域をさらに広げるのではないかと期待される。「碁立」での大膳、東吉ふたりのやりとりに、戦国武将がかかえこんだ野性が感じられた。
そして、七之助の雪姫だが、容姿はもとより端麗。加えて夫のために身を捨てる葛藤がこもり、櫻の大木に縛られてからの「爪先鼠」にも哀れがこもる。
三者三様。時代物狂言もこうした新しい顔ぶれによって継承され、次第に深められていくのだろう。
玉三郎による『蜘の拍子舞』。勘九郎の渡辺の綱、弘太郎の碓井貞光、七之助の源頼光、染五郎の坂田金時と颯爽たる役者を率いて、玉三郎の蜘蛛の精が舞台を圧する。葛城山の女郎蜘蛛、奥深い自然のなかに生きる生命体。得体の知れない存在の不思議が迫ってくる。
ただし、この舞踊劇自体に展開が乏しいために、いささか冗長。今の玉三郎ならば、新たにこの舞踊を再構成してより短く、効果的な演出をほどこしてもいいのではないか。
昼の部の切りは、『一本刀土俵入』である。長谷川伸の作だが、前半、うぶで純真な取的と後半凄みのある渡世人となってからの変わり目が見物だろう。幸四郎の駒形茂兵衛は、もとより後半にすぐれる。長い旅のなかで神経を研ぎすまして生きている男の寂寥が漂う。魁春のお蔦もはやり後半にすぐれる。出奔した夫をいつまでも慕い続ける純情、娘をいたわる気持ちが取手宿場はずれのあばらやにほっと灯りが点るようだ。
由次郎は近年ユニークな味をみせているが、船戸の弥八となっては重荷。芝居をうまく運ばないと作品全体がだれてしまう。
幸四郎はこの人情噺を人間の暗部に迫る劇として再解釈している。私はこうした解釈もあっていいと思う。二十六日まで。
新春の『壽初春大歌舞伎』は、おめでたい気分とは裏腹に人間の暗部を描いた狂言が並ぶ。
夜の部は『金閣寺』から。染五郎の松永大膳、勘九郎の此下東吉後に久吉、そして七之助の雪姫の顔合わせだが、新しい世代の台頭を感じさせる一幕となった。
染五郎は松永大膳の「国崩し」としての格をそなえる。本来の仁はこの役に必ずしも合っていない。それにもかかわらず荒れ狂う狂気さえ感じさせるのは、昨年『勧進帳』の弁慶をこの歌舞伎座で一月勤めた自信がもたらしたものか。
勘九郎の東吉がまた颯爽たる捌き役を水際だった口跡で見せる。才に走らず、胆力を見せる芝居で父勘三郞の藝域をさらに広げるのではないかと期待される。「碁立」での大膳、東吉ふたりのやりとりに、戦国武将がかかえこんだ野性が感じられた。
そして、七之助の雪姫だが、容姿はもとより端麗。加えて夫のために身を捨てる葛藤がこもり、櫻の大木に縛られてからの「爪先鼠」にも哀れがこもる。
三者三様。時代物狂言もこうした新しい顔ぶれによって継承され、次第に深められていくのだろう。
玉三郎による『蜘の拍子舞』。勘九郎の渡辺の綱、弘太郎の碓井貞光、七之助の源頼光、染五郎の坂田金時と颯爽たる役者を率いて、玉三郎の蜘蛛の精が舞台を圧する。葛城山の女郎蜘蛛、奥深い自然のなかに生きる生命体。得体の知れない存在の不思議が迫ってくる。
ただし、この舞踊劇自体に展開が乏しいために、いささか冗長。今の玉三郎ならば、新たにこの舞踊を再構成してより短く、効果的な演出をほどこしてもいいのではないか。
昼の部の切りは、『一本刀土俵入』である。長谷川伸の作だが、前半、うぶで純真な取的と後半凄みのある渡世人となってからの変わり目が見物だろう。幸四郎の駒形茂兵衛は、もとより後半にすぐれる。長い旅のなかで神経を研ぎすまして生きている男の寂寥が漂う。魁春のお蔦もはやり後半にすぐれる。出奔した夫をいつまでも慕い続ける純情、娘をいたわる気持ちが取手宿場はずれのあばらやにほっと灯りが点るようだ。
由次郎は近年ユニークな味をみせているが、船戸の弥八となっては重荷。芝居をうまく運ばないと作品全体がだれてしまう。
幸四郎はこの人情噺を人間の暗部に迫る劇として再解釈している。私はこうした解釈もあっていいと思う。二十六日まで。