2015年1月11日日曜日

【劇評1】 人間の暗部 平成二十七年一月 歌舞伎座昼の部

【歌舞伎劇評】 平成二十七年一月 歌舞伎座昼の部

新春の『壽初春大歌舞伎』は、おめでたい気分とは裏腹に人間の暗部を描いた狂言が並ぶ。

夜の部は『金閣寺』から。染五郎の松永大膳、勘九郎の此下東吉後に久吉、そして七之助の雪姫の顔合わせだが、新しい世代の台頭を感じさせる一幕となった。

染五郎は松永大膳の「国崩し」としての格をそなえる。本来の仁はこの役に必ずしも合っていない。それにもかかわらず荒れ狂う狂気さえ感じさせるのは、昨年『勧進帳』の弁慶をこの歌舞伎座で一月勤めた自信がもたらしたものか。
勘九郎の東吉がまた颯爽たる捌き役を水際だった口跡で見せる。才に走らず、胆力を見せる芝居で父勘三郞の藝域をさらに広げるのではないかと期待される。「碁立」での大膳、東吉ふたりのやりとりに、戦国武将がかかえこんだ野性が感じられた。   
そして、七之助の雪姫だが、容姿はもとより端麗。加えて夫のために身を捨てる葛藤がこもり、櫻の大木に縛られてからの「爪先鼠」にも哀れがこもる。

三者三様。時代物狂言もこうした新しい顔ぶれによって継承され、次第に深められていくのだろう。

玉三郎による『蜘の拍子舞』。勘九郎の渡辺の綱、弘太郎の碓井貞光、七之助の源頼光、染五郎の坂田金時と颯爽たる役者を率いて、玉三郎の蜘蛛の精が舞台を圧する。葛城山の女郎蜘蛛、奥深い自然のなかに生きる生命体。得体の知れない存在の不思議が迫ってくる。  
ただし、この舞踊劇自体に展開が乏しいために、いささか冗長。今の玉三郎ならば、新たにこの舞踊を再構成してより短く、効果的な演出をほどこしてもいいのではないか。

昼の部の切りは、『一本刀土俵入』である。長谷川伸の作だが、前半、うぶで純真な取的と後半凄みのある渡世人となってからの変わり目が見物だろう。幸四郎の駒形茂兵衛は、もとより後半にすぐれる。長い旅のなかで神経を研ぎすまして生きている男の寂寥が漂う。魁春のお蔦もはやり後半にすぐれる。出奔した夫をいつまでも慕い続ける純情、娘をいたわる気持ちが取手宿場はずれのあばらやにほっと灯りが点るようだ。

由次郎は近年ユニークな味をみせているが、船戸の弥八となっては重荷。芝居をうまく運ばないと作品全体がだれてしまう。

幸四郎はこの人情噺を人間の暗部に迫る劇として再解釈している。私はこうした解釈もあっていいと思う。二十六日まで。