2015年1月25日日曜日

【劇評4】長屋の二階のフォーティンブラス 『ハムレット』蜷川演出の深意

 【現代演劇劇評】一九七八年に日生劇場で『ハムレット』(シェイクスピア作)を初演出してから三十六年あまりが過ぎた。このときハムレットを演じた平幹二朗が今回はクローディアスに回り、ガートルードには鳳蘭を迎えた。こうした難かしい役に輝かしい主役を演じてきた平、鳳を配したために、二〇一五年のハムレットは世代間の対立を鮮明に打ち出す演出となった。
ハムレットを演じるのは藤原竜也、オフーェーリアは満島ひかり、レアーティーズは満島真之介と現在、最高水準の配役だろう。なかでも藤原竜也は青年の性急さよりは、激情と思慮のただなかで煩悶する三十歳を演じている。学者として、武人として、そして王子として世界の全体を引き受け、解釈しようとする個人のまっとうなありようが伝わってきた。
先王を殺した弟クローディアスは王位を簒奪し、王妃ガードルードと結ばれている。その腐臭に満ちた関係を描き出すために、蜷川演出は年かさの俳優の肉体をあえてさらけ出してみせる。上演中のために詳しくは書かないが、年齢のために避けられない肉体の衰えを隠すことを許さない。権力や色欲が醜いのではない。衰えた肉体にこそその醜さがふさわしいのだと語りかけているかのようだ。
それに対して、藤原の引き締まった肉体とほとばしる汗はひたすらな生を感じさせ美しい。また、痩身にして柳のような満島ひかりの輝かしさ、そして満島真之介の鋼のような肉体には純情と意志が宿っている。
成熟した青年と落日の老年が、決して混じり合わない絶望的な日々をともにするとき、悲劇が起きるのだった。
今回の上演では、樋口一葉原作、蜷川演出の『にごり江』などで使われた長屋のセットが舞台一杯にしつらえられている。思えば、菊坂下の一葉は明治を絶望的に生きた。明治期にハムレットがはじめて上演されたときの稽古という設定だが、ここではメタシアターの意味はさほど強調されない。むしろ、性急な近代化、西欧化のひずみのなかで、明治から平成へとひた走ってきた日本の醜く、老いさらばえた姿がこの朝倉摂による装置と重なり合う。もはや日本そのものが活力を失い、ぼろぼろになってようやく立っているとこの作品全体が告げている。
このデンマーク王国=日本の頽廃を打ち破ろうとして立ち現れるのは、内田健司が演じるフォーテンブラスであった。ハムレットの遺言によってこの国の指揮をとるのは、半裸体の細く針金のような身体であった。
蜷川幸雄演出の『ハムレット』の演出は初演の階段状の装置で知られ、幕切れ階段をよじのぼろうとする廷臣達を描き出してきた。権力構造を鮮やかに示した演出だが、二○一二年のさいたまネクストシアターによる『ハムレット』では、ガラス張りの床を作り、こうした上方への一方的な権力構造を破壊して見せた。今回の演出ではフォーテンブラスを上方には置くが、あまりにも危うい木造の長屋の二階にすぎない。そのガラス戸のなかで、最速のインターネット環境で世界とつながっている内向的な青年の姿が浮かび上がってきた。彼らが世界を変えるのか。変えるとすれば、それは肉体の暴力ではなく、情報戦のかたちをとるのだろうか。示唆に富んだ幕切れは、おそらくだれも予想できなかったろう。河合祥一郎訳。