2019年8月26日月曜日

【劇評145】坂東玉三郎の連鎖劇は、エコロジーといかに関わるか。

歌舞伎劇評 令和元年八月 歌舞伎座第三部

連鎖劇という言葉がある。
大正時代に流行した演劇の形で、実演と映画が交互に組み合わさり、劇場に掛かった。当時、映画は新奇なメディアである。その人気にあやかっての上演形態であった。
八月納涼歌舞伎、第三部は『新版雪之丞変化』である。長谷川一夫の映画(衣笠貞之助監督、伊藤大輔脚本)がよく知られている。この三上於菟吉の原作に、日下部太郎が脚本を仕立て直し、坂東玉三郎が演出・補綴をほどこした舞台である。
玉三郎が現実に舞台に立つ時間は多いとはいえない。仮にも歌舞伎座で、これほど限られた出演でよいのかという批判もあるだろう。けれども、映像テクノロジーの進化によって、舞台面が変っていくのも必然であり、そのひとつの解答として考えると興味深い。
私が、この舞台を評価するのは、次の三点である。
第一に、新たな撮り下ろしの映像を舞台にのせたこと。
中車(香川照之)は、すぐれた映画俳優としてキャリアを築いてきた。舞台上の仁木弾正はともあれ、花道から掲幕奥、そして奈落へ。ドキュメント仕立てで、仁木を演じる俳優となりおおせるだけの力量を中車は存分にそなえている。
まして、映像を監修、演出したのは玉三郎自身であろう。玉三郎は、かつて映画監督をしてすぐれた作品を残している。『外科室(一九九二年)』、『夢の女(九三年)』、『天守物語(九五年)』は、その精華だが、中でも泉鏡花原作、吉永小百合主演の『外科室』は、玉三郎の監督としての玲瓏たる美意識に貫ぬかれていて秀れていた。今回の断片的な映像も、小手先の作ではなく、自立した力を持っていた。
第二に、玉三郎の過去の舞台映像をコラージュしたこと。シネマ歌舞伎に限らず、玉三郎がこれまで蓄積してきた歌舞伎映像は質量ともに群を抜いている。コンピュータが映像を支配する以前に、フィルムで撮られた作品も数多い。こうした財産を駆使することで、雪之丞の舞台人生を描く上で効果を上げた。
最後に、この舞台が地球のエコロジーに貢献していることを重くみる。オペラを例にとるまでもなく、木材などを使った舞台装置の制作は制作予算を圧迫している。そればかりではない。新作歌舞伎のために新たに作られた装置は保存されるのは例外で、多くは破棄されるのが現実だろうと思う。興行のために資源を無制限に使ってよいという考えは、もはや説得力を持たないだろう。その意味で、インパクトと珍奇さを狙ったいかにも人工的な映像ではなく、一、二であげた重みのある映像を使うのは意味がある。
最後に、歌舞伎の狂言立てについても触れておきたい。中車のいる座組みを考えると、長谷川伸の世話物を出し、『元禄花見踊』で打ち出すのが従来の番組だろう。歌舞伎らしい狂言立ての定式を踏襲するのでは、もはや刺激的な企画とはなり得ない難しい時代を私たちは生きている。二十七日まで。